福永武彦 第四随筆集 夢のように 目 次  十二色のクレヨン(抄)   ねんねんさいさい   引越   心中無限事   福引   親切な紳士   仲人   蕎麦と芹   さくら   道   講演嫌い   晴耕雨読   怪談   車   老眼   「十二色のクレヨン」ノオト  美術随想   ロートレックの現代性   ドラクロワと文学   ゴーギャン展二題   一、ゴーギャン紹介   二、世界の謎   ムンク礼讃   硝子の窓  音楽随想   レコード批評というもの   ワルター頌   シベリウスの新盤   恋愛音楽   ベートーヴェン寸感   音楽三題噺    一、「ルル」雑感    二、百枚のレコード    三、音楽療法   シベリウスの年譜  身辺雑事   デュヴィヴィエの頃   瓢箪から駒   月と広島   宵越しのぜに   万年筆   暖かい冬   平安京の春   閑中多忙   古書漫筆   千里浜奇談   映画漫筆   伊豆二題   昭和二十二年頃   夢のように   宇都宮   私の健康法   ほたる   写真嫌い    掲載紙誌一覧    後記 [#改ページ] [#小見出し]  十二色のクレヨン(抄)    ねんねんさいさい  まだ療養所にいた頃、私は寝台の上に机を据えて「風土」という小説を書いていた。一つ一つ註釈をつけるならば、寝台というのは木製のごく粗末な代物《しろもの》で、それが三つずつ向い合せに並んで一部屋をなしている。そのような大部屋が廊下の南寄りの片側にずらりと並び、一番はずれの部屋だけは廊下の突当りに入口があって、どういうわけか静臥室と呼ばれていた。従ってその部屋は廊下分のスペースだけ寝台が一つ余分にはいる勘定で、つまり七人部屋ということになる。私はその余分の寝台の上に坐り込み、膝の上を蒲団でくるみ、蜜柑箱を壊してそれに脚をつけたような、ちょっと机とは呼びがたいような代物を膝の上に置き、その机の上に原稿用紙と歯磨粉の空缶とを載せて、寝たり起きたりしながら、しきりに苦吟していたわけである。  しかしもう少し註釈をつけなければ、状況がはっきりしないだろう。私が病気をもかえりみず悲愴な決心で小説を書いていたなどと思われては、こそばゆい。私のいた国立の療養所では、少し具合のよくなった患者は外気小舎というのに追い出されて、そこで作業療法をさせられる。作業といっても大したことはなく、手初めは一時間ぐらい草刈りをやる程度だ。私もあとになってこの外気小舎での生活を経験したが、当時はまだそれどころではなかった。しかるに私たちの担当の医者、国立だから医官というのが本当だが、私たちはごく気軽にさんづけで呼んでいたが、その何とかさんが、重症でない患者は多少の作業をした方が精神衛生上よろしいと考えたらしく、私が机に向うのを黙認してくれた。もっとも私だけではない。ガリ版の原紙を切っている男もいれば、ラジオの修理をしている男もいる。女子患者になれば(彼女たちがまったくの別棟に居住していることは断るまでもなかろう)編物や刺繍をしたり折紙をつくったりしている。療養所の中では俳句や詩の同人雑誌も出ていて、これは男女共通の愉しみである。というわけで、私は精神衛生上の理由で小説を書いていたが、何しろ大部屋だから誰か彼かはお喋りをしている。話し掛けられることもしばしばである。気分を集注していない限りそれこそ一行も書けはしない。  机の上に歯磨粉の空缶があると言ったが、これは御推察の通り煙草の吸殻入れである。療養所内は絶対禁煙、しかし隠れて喫む煙草ほどうまいものはない。だいいち外気小舎にもぐりの煙草屋がいて、この患者は外から多量に買い込んで来ると、一箱につき一本とか二本とかのコミッションを取って商売をしているくらいだ。そこで私たちはこっそり煙を吐き出していたが、一日一回は医官の回診があるし、看護婦はちょろちょろ出たりはいったりするし、時々は内科医長とか所長とかいうお偉い先生も姿を見せる。ところが私の住んでいる寝台は、前にも言ったように要枢の地を占めていて、廊下は一眼で見渡せる上、横手の窓からは隣の病棟さえもはっきり分る。私の掛声一つで、部屋じゅうに立ちこめていた煙草の煙がさっと消えてなくなるのは壮観だった。  さて話をもとに戻すと、私の書いていた小説の中で、どうしても東北地方のわらべ唄が必要になった。療養所の生活は色々と不便には違いないが、物を書くに当って参考書一冊ない始末だから手がつけられない。その小説の主人公は東北地方の或る海岸で育ったことになっていて、しかもその幼年時代を書かざるを得ない場面に立ちいたったのだから、私ははたと困ってしまった。そこで療養所内の数人の友人に相談したところ、東北生れの一人の女性を紹介された。  その辺で私の記憶は少々怪しくなるのだが、この女性が(仮に小田切さんという姓にしておこう)どういう身分だったのか、今ではとんと思い出さない。患者でもなかったし、看護婦さんでもなかった。療養所内の事務室とか検査室とかに臨時で勤めていた人のような気がするし、多分もとは患者だったのだろうという気もする。年は二十四五にもなっていたろうか。色白で、目立たないごくおとなしい女性だった。  私はこの小田切さんに、彼女の聞き覚えている東北地方のわらべ唄を、はじからうたってもらった。小説のその部分を書き終ったあとで、彼女に原稿を渡して、東北弁の方言をそれらしく訂正する仕事を頼んだ。まったく小田切さんがいなかったら、私の小説は途中で行き悩んでしまったことだろう。  ところで小田切さんははにかみ屋だから大きな声でうたってくれたわけではない。口の中でそっと呟いていた程度である。私はあれこれ聞いた上で、主人公の子供の寂しい心持を出すために、次のようなお手玉唄を選んで、それを小説に使った。   一人でさびし   二人で参りましょう   見渡すかぎり   よめ菜にたんぽ  私はこれを岩波文庫の「わらべうた」を見て写したが、私が教わったのは四行目が「よめ菜スたんぽぽ」で、右の本文の「たんぽ」と訛っているのも田舎らしいが、「よめ菜ス」となっているところが如何にも感じが出ている。それに今になって気がついたことだが、この唄は一二三四《ひふみよ》と頭韻を踏んでいて、あと十まである。聞いた時にそれが分らなかったとは随分ぼんやりした話だ。  さて私が書きたいのはこれからである。その時小田切さんに聞かせてもらった唄のなかに、意味のよく分らない子守唄があった。「ねんねんさいさい」というので始まる哀切なもので、東京などで普通にうたう「坊やはよい子だ ねんねしな」と殆ど同じ節である。ただ文句はまるで違うし、節まわしももっとゆっくりとして、節の終りのところが余情が深い。しかし何しろ「ねんねんさいさい」というのが分らないから見送ってしまった。  この唄はやはり岩波文庫の「わらべうた」のなかに宮城地方の眠らせ唄として出ている。その文句は次のようなものである。   ねんねん さいさい 酒屋の子   酒屋が嫌なら 嫁に出す   箪笥 長持 挟み箱   これ程重ねて 遣るほどに   二度と来るなよ この娘   お父《ど》ちゃん お母《が》ちゃん そりゃ無理よ   西が曇れば 雨となる   東が曇れば 風となる  これに各節に「寝ろでばや 寝ろでばや」というリフレインがつく。長持や挟み箱が出て来るくらいだから、「でんでん太鼓に笙の笛」の子守唄と同じように古いものであろう。第三節から第四節に移るところが必ずしも理詰めでなくて、民謡らしい味わいがある。  この唄も全国に色々に変った文句で流布されているらしいが、出だしは「ねんねん おころり」の変形で「ねんねん さいころ」とか「ねんねん ころころ」とかなっているようだ。しかし小田切さんのうたった「ねんねん さいさい」というのが最も趣きがある。というのも、これは初唐の詩人劉廷芝の「白頭を悲しむ翁に代る」という七言古詩の一節を、もじったものと思われるからである。   年年歳歳花相似   歳歳年年人不同  年は変っても今年の花は去年の花に同じいが、来る年ごとに人は同じではない。容色の衰えることもあれば、幽明境を異にすることもあるという意味で、「洛陽城東桃李花」という起句から「惟有黄昏鳥雀悲」の結句まで、唐詩選の中でも最も有名な詩の一つであろう。題名に明かなように、白髪の老人が洛陽に住む若者たちに、人生ははかなくて青春はうつろいやすい、昔は賑かな盛り場も今では夕暮の黄ばんだ光線の漂うなかで鳥や雀が悲しげに鳴き騒ぐばかりだと教訓を垂れている詩だが、実は作者が白髪の老人になり代っての作で、伝によれば劉廷芝は三十歳にならないうちに死んだそうである。  この白頭翁の詩は、私のような者でも中学生の頃に全文を諳記していたくらいだから、昔は誰しも少し漢文が読めれば、朗々と誦していたことであろう。子守をしていた小さな女の子が、家のなかから聞えて来る「年年歳歳花相似タリ」を耳にして、意味も分らないままに、「酒屋の子」の頭のところを「ねんねんさいさい」と取り替えたことも、充分に考えられる。そして娘を嫁に出すというこの唄の文句の背景に(その文句は既に子守の娘にとって一つの願望だったに違いないが)この詩の内容をだぶらせて解釈すると、哀調が一層深まるようである。  私が清瀬の療養所を出たのはもう十五年も昔である。私はそこに足掛け八年いた。年々歳々の感じは、ああいう閉鎖された、日常が死と密接した世界では、取り立てて言うほどのものはない。暮も正月も不断とあまり変らない。しかしそれは当時、私が今よりも若かったせいかもしれない。  療養所を出てから、私は小田切さんに一度も会ったことがない。彼女を紹介してくれた友人たちも、今はどこにいるのか。小田切さんも無事に結婚して、生れた赤ちゃんに「ねんねんさいさい」の子守唄をうたったことだろう。今ではその子たちも大きくなって、いつのまにか子守唄の記憶も忘れてしまっているだろう。    引越  療養所を出て結婚した時に、細君に向って、引越が趣味なんだと申し渡した。それからの十五年間に、数えてみれば七回ほど引越をした。現につい最近も、居を変えたばかりである。  引越というのは、居が改《あらたま》るのと同時に気分も改るから、精神衛生上大へん宜しいというのが私の持論である。これには親父の薫陶宜しきを得ているのかもしれない。私の父は引越が好きで、しばしば移動した。日曜日になると私を連れて近所を散歩する。そうすると戦前には借家がたくさんあったから、ふと斜めに貼られた借家札が目にはいる。さっそく中にはいって見せてもらい、気に入らなければそれでさよなら、気に入ったら次の日曜日にはもう引越、——とまではいかなくても、とにかく気軽なものだ。従って私も親父に倣って居を転じることがちっとも億劫ではない。惜しむらくは戦後になって、「かしや」などという札にはさっぱりお目にかからなくなった。引越をしたくても行先がなければ話にならないから、それを見つけるのに苦労をする。  私の細君のように、子供の頃から一つ場所にある両親の家に住んで借家なるものを知らない人間には、私のようなのは不思議な生物に見えるらしい。きちんと権利金敷金家賃を払い、住みやすいように室内の模様替えを試み、庭に草花などを植え、さて二年も経たないうちに別のところへ移るのでは、無駄な骨折と思われてもしかたがない。況やその引越に、若い連中を引越委員長とか副委員長とかに命名して、夫子自らはふところ手で斜《しや》に構えていたのでは、あなたは趣味で宜しいでしょうけど、と厭味の一つも言われることになる。  引越が趣味だというのは、どうも男性に限るようである。葛飾北斎は生涯に百回の引越を志したそうだが、惜しいかな果せなかった。フランスの詩人ボードレールも、若い頃は引越が好きでやたら動いて、そのくせ「私は物の線を動かす運動を憎む、」などと詩に書いている。つまり引越は好きだけど無精者だということだろう。引越好きは男性が移り気なことの証拠にはなるまいが、これが女性ともなれば、やはり女性は一つところに落ちついているのが好きなのだろうと私は想像する。引越に当っても私の持ちものは本ばかりだから、箱に詰めれば動かすのは簡単だが、主婦は瀬戸物の類を抱え込んで、皿小鉢を一つずつ丁寧に紙や布にくるまなければなるまい。あれでは面倒くさがるのも無理はない。  しかしさすがの私も今度の引越にはくたびれて、もうやめたと公言している。狭い家へ押し込むには、自然と溜った本が多すぎて、人間さまの居どころがない。しかもいつまで経っても片づかず、そこらへんのものを蹴とばしたくなる。もう三週間近く経ったのに、眼の前が黄色く見えるくらい、がっくりしている。この前の引越の時にその通知を寺田透さんに出したら、あなたがたびたび引越をするのは神秘的な感じがする、という返事を貰った。褒められたと思っていたが、よく考えると、どうも体《てい》よくからかわれたようである。    心中無限事  人には誰しも、そのことについて昔もっとよく勉強しておけばよかったと後悔することがあるものだが、私にとってのそれは漢文である。つまりもう少しすらすらと漢文や漢詩が読めさえすればと嘆息することが多い。もっとも勉学には遅すぎるということはないから豈ツトメザルベケンヤではあるけれども、小学校にあがる前から四書五経の素読を受けたなどという人の話を聞くと、今さら及ぶことではないと諦めざるを得ない。これは半分は親の責任である。私の父親は、私が小学生の頃に先生についてピアノを習わさせた。しかるに私はちっとも興味を覚えなくてすぐに願い下げにしてもらった。従って今でもおたまじゃくしが読めなくてしばしば恥をかくが、そのことについて後悔はしていない。というよりこれは生れつきだと我慢することが出来るし、自分でピアノが弾けなくても音楽に耳を傾けることは出来るからである。しかるに漢文の方はそうはいかない。素養があるとないとではまるで違う。  近頃は若い母親が小さな子供を絵や音楽などのお稽古事に通わせるのが一種の流行になっているらしい。私はそれを見上げた風潮だと思っている。もっとも子供が厭でたまらないのに親の虚栄心から押しつけたのでは、効果の点では覚つかないだろう。しかしまた子供が厭がるのにいちいち応じていては、親の権威が覚束《おぼつか》なくなるだろう。それにしてもたまには、漢文の素読を子供に命じる母親がいてもよさそうな気がする。但しそんな先生はおいそれとは見つからないだろうから、もしいたらの話である。  私が漢文に習熟していないのは私の父親の責任であるかのように書いたが、実はそうとばかりは言い切れない。よく考えれば私自身の責任でもあって、そこに私の後悔の基《もとい》があるとしなければならない。  私は東京の道灌山の近くにある私立の中学校に通った。それは由緒のある学校で、従って名物の先生も少くなかったが、その一人に原先生というお爺さんが漢文を教えていた。顔色は渋柿の皮の如く、眼は小さく、背は低く痩せぎすで、謹厳寡黙、教壇にある姿は孔子さまの塑像のようである。その教えかたは、まず自分が読み、しかる後に教室の生徒全員に復誦させる。その他に語句の説明もあっただろうし、また一人ずつ当てられて読むということもあったに違いないが、私の記憶では、この生徒全員が一斉に雛《ひよこ》のように嘴《くちばし》をそろえて読む場面が、昨日のことのように鮮かに思い浮ぶ。原先生は語句の細かい解釈なんかよりも読書百遍義オノズカラ見《アラ》ワルことを重んじる、古風な型の先生だったのであろう。  ついでに思い出したが、国語の担任に佐藤先生という若くて勇ましい人がいた。先生は生徒の一人一人に「言海」を買わせ、必ずそれを引いて予習をして来るように命じた。当時でも教科書には虎の巻というものがあり、私たちはそれをアンチョコと呼んでいたが、なにしろ簡便だから中にはついアンチョコによって下調べをし、何食わぬ顔で教室に出て来る奴がいる。佐藤先生は黒板の前に仁王立ちになって生徒の解釈を聞いているが、「言海」の説明と少しでも違おうものなら、それまで拳《こぶし》のなかに握りしめていたチョークを、やっと二つに折って、その生徒めがけて投げつける。コントロールはよかったがしかし必ず命中するとは限らない。それ球ということもあるからその恐ろしいこと、生徒はみな戦々兢々としている。後になって考えてみると、先生もアンチョコを熟読されていたからこそ「言海」との相違をいちいち指摘できたわけだが、当時、中学生たちには千里眼の如き先生だと思われていた。私などが今でも少し怪しい文字があるとすぐに辞書を引くのは、まったく佐藤先生のお蔭である。しかし癇癪もちの先生だったことは間違いない。  原先生は御老人のせいもあるが、一度も怒った顔を見せられたことはない。雛《ひよこ》どもに難しいことを教えてもどうせ馬の耳に念仏と諦めていられたのだろうか。とにかく生徒一同に音読を命じて、それが終るまでの間じっと眼を閉じていられた。その音読だが、先生が「はい」と合図をされると、雛の嘴がそれとばかりにさえずり始める。それは一人一人の競争なので全員が声を合せて読むわけではない。早く読み終った者が得意になってあたりを見まわし、やがて一人ずつ終って、最後の一人が声を出さなくなるまで、先生ひとり沈思黙考、ひょっとしたら居眠りでもされていたのではないかと、疑う節もある。自慢を言えば、私は最も早く読み終る一人に属していた。早く正確に読むためには、何としてでも予習を充分にし、殆ど文章を諳記するまでになっていなければならない。私は今でも早口の方だが、その頃は早言葉《はやことば》などを真面目に実習したものである。早言葉はまた繰言葉《くりことば》とも言って、当時私たちが愛読していた少年倶楽部によく載っていた。参考のために易しい例をあげておこう。  隣の客はよく柿食う客かよく柿食わぬ客かうちの客はよく柿食う客だ。  向うのくぐり戸は栗の木のくぐり戸でくぐりにくい栗の木のくぐり戸だがうちの栗の木のくぐり戸はくぐりいい栗の木のくぐり戸だ。  この原先生は自宅で漢文塾を開かれていた。私の家があった雑司ヶ谷から墓地を抜けて池袋の方に行く途中で、どういう機会から私がそこに通うようになったのかは思い出せない。どちらにしても中学生の私にとって、漢文が最も好きな授業だったから、自分の意志で、ということは父親にせびって、通ったことだろうと思う。そこでは四書や唐詩選などが教材に用いられ、その他に詩吟も教えられた。  私が現在に於ても漢詩文が読めないことを嘆いている以上、中学生の私が熱心に勉強しなかったことは明かである。塾にも長く通ったとは思われない。要するに私は早口で音読するためにのみ殊勝な気持を起したものであろう。本人にその気がない限り何ごとにも進歩はないというよい証拠である。私はそのうちに中学の授業を軽んじるようになり、或る時、隣の席に坐っていた仲間から流行歌を教えてもらった。この仲間は恐らく不良少年で、スパルタ式の学校のやりかたに反抗していたに違いないし、私も少しばかり反抗的だったようだ。「こういう唄を知ってるか、」と彼が言って、そっと歌ってくれたのが哀調切々として文句もまた覚えやすい「島の娘」である。これは勝太郎がうたって一世を風靡した流行歌だが、私はそれがはやり出したごく初期にいち早く覚えたことになる。そして私がそれを覚えたのは、休みの時間にではなく、まさに漢文の授業時間、例の一斉音読の間にだった。十八史略なんかより、こっちの方がよほど面白かったに違いない。原先生のお耳に二人の生徒の合唱が聞えなかった筈はないが、先生は寛容で素知らぬ顔をなされていた。  ところで私がその頃最も愛誦したのは、白楽天の「長恨歌」と「琵琶行」であって、塾で教わった論語や孟子ではなかった。それは私の頭の構造のせいであろう。白楽天は王朝の昔から我が国の文学に多大の影響を与えたが、中学生の頭のなかに、或いは心のなかに、すらすらと入って来るような、一種の流麗としか言いようのない響きを持つ。但しその中身が中学生にどこまで分っていたやら。  白楽天の作品は唐詩選には一つも採られていないし、原先生の塾でもああいうなまめかしい詩を教えられた筈はないから、私はそれを塩谷温博士のアンソロジイで読んだのかもしれない。「長恨歌」は百二十句、「琵琶行」は八十八句からなる七言古詩で、どちらも長い詩だが、私はそらで覚えていて、それが当時の私の自慢だった。人間の記憶力は二十歳くらいまでに最もよく発揮されるのだろうから、大したことではない。そして中学生にとって、例えば「長恨歌」の、   春寒賜浴華清池   温泉水滑洗凝脂  楊貴妃が入浴するこういう場面に、あらゆる想像力を駆使させていたのだろうと思う。後にアングルの「トルコ風呂」の複製を見て、すぐにこの二行を思い出した。漢文はその意味がよく分らない時に一層暗示的であり、日本語に移して読んでも(私は原語で読むことは出来ないが)充分に美しい。それは日本人の智慧である。「琵琶行」は詩人が大江に舟を浮べて琵琶を聴くという筋書だから、音楽の美しさを文字によって描いた作品であり、従って詩もまた甚だ音楽的に出来あがっている。例えば女が乞われて琵琶を弾き始めるところ。   絃絃掩抑声声思   似訴平生不得志   低眉信手続続弾   説尽心中無限事  このあと演奏の描写がさまざまの比喩を用いて十六句も続く。ただ右の引用の中でも「眉ヲタレ手ニマカセテ」と読むような難解なところがあるものの、唐時代の他の詩人たちに較べれば白楽天はずっと易しいし、そこが日本人の耳に入りやすかったということもあるに違いない。そして中学生は「心中無限ノコト」などという言葉を素通りして、他日その言葉に躓くことがあるのを知らなかったのである。    福引  私は文章を書くかたわら大学の教師をつとめていて、早いものでその大学にフランス文学科が出来てからもう十五年になった。ということは私の教え始めた年に第一回生が卒業したので、つまり私は全卒業生を識っていることになる。  私がどのような教師であるかは、それこそ随筆のたねだからいずれ書くことにして、簡単に言えば、初めのうちは中学の佐藤先生の如く学生をして戦々兢々たらしめた。それというのも第二回生にクロちゃんという渾名の女子学生がいて、この学生は何かにつけて涙をこぼす弱虫だったが、たまたま卒業生の口述試験の時に私が何か訊いたら、その瞬間にわっと泣き出したものである。当時は卒業生の数も少く、先生がたが六人ばかり並んでいる前に一人ずつ現れるのだから、神経質な学生なら一触即発の状態にある。その一触の役割を運悪く私が果した。さあそれからはこれが伝説となって、あれは女の子を泣かせた怖い先生だという噂が立ってしまった。冤罪もはなはだしい。それ故、全卒業生を識っていると私が言っても、私の講義演習は点がからくて損だという定評もあるので、学生の方であまり寄りつかないから実際はごく僅かである。  十五年経ってお目出たいから記念パーティをやろうという話が生れ、この間それが或るホテルの宴会場で開催された。先生がたも御招待ではなく、ちゃんと会費を払って出席することになり、洩れなくこれに参加した。それというのも当日は福引があり、その景品が素晴らしいというので、どうも全員それを当て込んだためらしい。  卒業生のうちに新品の電気皿洗機を一台、ぽんと寄附した人がいる。それを聞いた先生がたの奥さんは、ぜひとも当ててくれと亭主たちをけしかけた。中でも若くて勇ましい或る奥さんは、識っている誰彼をつかまえては、当ったらあたしに頂戴よと強引に説得し、特に独身の講師や助手が狙われたらしい。もっともその講師は、「電気皿洗機を持っていたら、いいお嫁さんが貰えることは確実だから厭だ、」と断乎としてはねつけ、彼女から怨めしげに睨まれたそうである。パーティの当日、この奥さんは(彼女はまた卒業生でもある)亭主の監督がてら会場に現れ、虎視耽々として皿洗機の方を見詰めていた。  私もまた細君から「ぜひ当てて来て、」と命じられたが、狭い家に引越したばかりで物は散らかり放題、とてもそんな大物を入れる余地はない。「電気洗濯機の上にでも載せておくつもりかね、」と冗談は言ったが、私にしても内心は野心満々として福引の当らんことを祈っていた。  福引は特賞がその皿洗機一台、次の一等となるとせいぜいレコード一枚かびっくり玩具の類《たぐい》で、その差たるや著しい。パーティはなかなかの盛況だったし、久しぶりの卒業生に会って愉しい思いをしたが、そのあたりは省略する。いよいよ福引となって、注目の的の皿洗機は在学中の女子学生に簡単に持って行かれた。絶対当てると意気込んでいた例の奥さんの落胆ぶりは想像にあまりある。例の独身の講師曰く、「彼女は会がはねるまで皿洗機のそばをうろちょろしてましたよ。いじくりすぎて機械を壊しちゃったのじゃないかしらん。」  私はと言えば、手動式皿洗機というのが当った。タワシのことである。  そこで考えるに、私にとって福引と言えば、まずビリ等と相場がきまっている。およそくじ運の悪いこと、人後に落ちない。もっとも一度だけ、四等だか五等だかでバケツを貰った。それは療養所を出て、杉並の方南町に六畳一間しかない家を(それでも独立家屋だったが)見つけ、細君と世帯を持ったその年の暮のことである。私は夕方ひとりで甲州街道まで散歩に出て、笹塚の近くの古本屋で黒岩涙香の古い縮刷本を五冊ばかり買った。そうしたら福引券をくれたので、何の気もなしに抽籤所でくじを引いたところ、「大当り四等賞、」とか何とか耳もとで怒鳴られて、たちまち名前を訊かれて貼り出された。しかし賞品はたかがバケツである。「お持ちになりますか、」と言われて、「ああ持って行くよ、」と引ったくるように受け取ると、その中に五冊の涙香を入れて片手にぶら下げた。そして燈火のきらめき始めた柿色に染った町を、飛ぶが如くに坂を駆け下り、我が家の玄関の戸をがらりひらいて、「当ったぞ、」と喚いた。  びっくりして飛び出した細君が、「あらバケツ、」と言った顔を今でも覚えている。当時私たちは貧乏のどん底で、バケツ一つにも不自由していたからである。    親切な紳士  ただで物を手に入れるのは嬉しいにきまっているが、これが反対に物をなくすとか、物がなくなるとかいうのでは、誰にとってもあまり気持のよいものではあるまい。私のような仕事をしている人間には、何と言っても原稿のなくなるのが一大事である。出版社の側の手落で紛失したというような時でも、万やむを得なければもう一度書き直す破目になろう。渡した原稿が活字になる前に、その雑誌が発行を取りやめたとか、その出版社が潰れたとかいう煽りを食って、原稿が行方不明になることもある。戦後の騒々しかった時代には、私にもそういう不運が二三度あった。しかし以下に私がしるすのは、人の手から手に渡っていた間に原稿が消えてしまった例で、その責任者である当人は昨年亡くなった。ふとその男のことを思い出したので、ついでに古原稿のことも記憶に甦ったわけである。  それは昭和二十六年だから、私がまだ療養所にいて、どうやら元気になったが退院できるほどの健康は回復せず、謂わば途方に暮れていた頃のことである。私は療養所内の古株としてたくさんの友達を持っていたが、その一人に或る女子患者がいた。仮に牧さんとしておこう。音楽が好きで、高級なラジオの器械を枕許に据え、日夜名曲を聴いていたし、音楽に関しては私などよりも遥かに造詣があった。ところが或る時、彼女の見舞に来た野崎君という人に紹介されてみると、この男が牧さんの音楽的教養の源であることが判明した。  私は彼を野崎君と心安く呼ぶようになったが、実際の年齢は私より十近くも上の筈だった。背の高い、顔の浅黒い、謂わゆる苦み走った好男子で、いつも人が振り返るほどの派手なシャツを着て、いかにもダンディと呼ばれるにふさわしかったから、私と同年輩としか見えなかった。この野崎君はこと音楽に関しては殆ど専門家と言ってもよく、楽器を嗜むばかりでなく、作詞作曲、はてはオペラの台本まで書いていた。音楽以外も何ごとにつけて器用なたちで、詩も書き、小説も書き、翻訳もし、また遊びごとは麻雀をはじめ碁将棋の名人で、パチンコから競馬まで行くとして可ならざるはないという勢いだった。但しその頃は専ら放送関係の仕事をしていて、ラジオの第二放送に特定の音楽番組を受け持ち、私にも一口乗らないかと誘ってくれた。私は何しろ療養所の中で尾羽うち枯らしていたから、悦んで誘いに乗り、せっせとその台本を書いた。その番組は「私は音楽です」というタイトルで統一されていて、時間は三十分、バッハやヘンデルなら二回とか三回とかの続きものでやるのだが、時間の半分ぐらいはレコードで音楽を流すから、割合に簡単な脚本ですんだ。君は何をやりたいかと野崎君が訊くから、バッハと答えたらそれは僕がやるから君はヘンデルをやれと言う、次にモツァルトと言ったらそれも僕がやるから君はベートーヴェンをやれといった具合で、どうも面白いところはみんな彼に持って行かれたが、それでも私には大変ありがたかった。たしかヘンデルは三回つづき、ベートーヴェンは六回つづきで、お蔭で私は勉強もしたし原稿料にもありついた。その他にも数人の音楽家を手がけたが、今になってもよく分らないのはこの題名である。私は音楽です、というのはつまり音楽が自ら聴取者に喋るという寸法で、私たちは脚本の中で、音楽それ自体の代弁者の役割をつとめていたことになる。「みなさん、私は音楽です。ちょっと私の優秀な生徒の一人であるベートーヴェン君を紹介しましょう、」というようなものだ。つまりこういうタイトルのつけかたにも、野崎君の自信のほどがうかがわれたと考えるほかはあるまい。  私が療養所にいて生活費を稼ぐためにせっせとラジオの脚本を書いていたのは、昭和二十七年、つまり野崎君を識った翌年のことだが、その春ごろにオリジナルの脚本を一つ書いた。「人生の街角、または親切な紳士と不幸な恋人」という、いやに長ったらしい題名を持った三十分番組である。この脚本は野崎君を経由して放送局の内部を転々として結局は不採用ということになって野崎君が私に返してくれる筈のところ、いざとなるともうその行方が知れなかった。今になって考えてみると、あれは箸にも棒にもかからぬ代物だったから、余計な遊びはせずに小説でも書けという、野崎君の親切だったかもしれない。それに原稿が紛失したのは決して野崎君個人の責任というわけではなく、日本放送協会の中で誰かが持ち込み原稿を粗末にしたせいであろう。  私の書いたこのラジオドラマは、詳しいノオトが残っていてもう一度書き直すことも可能だったが、ついぞそんな気にならなかった。出来がよくないことは自分でもよく知っていたと見える。実を言えば私は、その後十年ばかりしてからもう一本、「時の雫」と題したラジオドラマの脚本を書いた。この方は無事に放送されたが、これがまた自分でも気に入らなかった。どっちにしてもラジオとは縁がなかったと言うべきだろう。私が得意だったのは、初めの方のはショパンの「ワルツ」イ短調を、あとの方のはメシアンの「世の終りのための四重奏曲」の一部分を、それぞれ背景に使い、他の音楽は一切使わないという着想にあったので、考えてみるとそんな着想だけではろくなものが書ける筈もなかった。  しかし失われた原稿というものは、余人は知らず当の本人にとってはいつまでも少々心残りがあるものだ。何しろノオトが残っているのだから、せめて筋書だけでも書きとめておこうかと思う。大体のところ次のようなものである。  ○街の騒音。タクシイの中で乗客(親切な紳士)と運転手との対話。そのタクシイが若い男を轢く。  ○病院。看護婦に向って紳士が容態を尋ねる。明日また来てみると言う。  ○東京駅待合室。騒音。女が待っている。紳士が独り言を呟く。二人が話し始め、女は約束した人が来なければ行くところがないと言う。家には帰れない。紳士は汽車を明日にして女を宿屋へ案内する。(放送を聞いている側にしてみると、この紳士が本当に親切なのかどうか分らない。)  ○テーマ音楽。病院で青年が目覚める。看護婦に時間を尋ねる。約束の次の日になっている。青年は看護婦に女との約束を話す。大変なことになった。看護婦が慰める。きっとお家へ帰っていらっしゃるでしょう。電話を掛けてくれと頼む。看護婦は電話を掛ける。女中が出て、母親が出る。娘は昨日から帰っていないと言い、愚痴をこぼす。その家庭のつめたい雰囲気。看護婦は一方的に電話を切り、病室に戻る。青年との対話。次第に昨日の約束の時間に近づく。テーマ音楽。ノックの音。彼女? 親切な紳士が現れる。ゆっくり静養して下さい。私は旅行に出るが一週間ほどして帰るから、その時またお会いしましょう。  ○待合室の騒音。昨日の女が青年を待っている。紳士が来る。気の毒がり、旅行に行かないかと誘う。いずれ時が経てば、恋は熱病のようにけろりとなおるものだ。昔は私にしても……。ダブって——。  ○テーマ音楽。青年が彼女との熱病のような恋を看護婦に語る。ダブって、不幸な恋人たちの対話。かけおちの約束。テーマ音楽。それが中断されて看護婦はお休みを言って去る。  ○プラットフォーム。発車アナウンス。女と紳士との対話。女は尚もためらっている。ダブって、青年の独白。女への呼び掛け。テーマ音楽。発車ベル。女、あの人が呼んでいる。汽車の出て行く音。呼び声。  このシノプシスの中のテーマ音楽というのが、前に述べたショパンの「ワルツ」イ短調なのだが、当時よほど私はその曲が好きだったのだろう。私のノオトには、東京駅発の東海道線の夜行列車の時刻表が書いてあるが、その頃の客車はまだ一等から三等まであったし、蒸気機関車が引張っていた筈である。今でこそ自動車事故は日常茶飯みたいになってしまったが、この昭和二十七年という時代ではどうも多少つくりものの感じがする。しかし私は熱心に演出プランなどをも考え、主役の紳士に友人の芥川比呂志を当てたいなどと夢想していたものだ。  この親切な紳士が、本当に女に対して親切なのかどうか、その辺を聴取者の解釈にまかせるようなところが、言ってみれば私の脚本のみそだったのだろう。そしてその人物のイメージに、ひょっとしたら野崎君の人柄が無意識に(と今になって私は気がつくのだが)反映していたのかもしれない。私は彼のことをそれほどよくは知らなかったし、牧さんという女子患者への彼の親切も、彼女にとって悦ぶべきことなのかどうか、はた目に危ぶむようなところがあった。  私はその次の年に療養所を出て大学の教師になり、月給を貰える身分になったから、もうラジオドラマを書く必要もなくなった。牧さんも退院して、野崎君との間は長く続いた。私は野崎君とごくたまにしか会わず、牧さんとも会わなくなったが、野崎君の噂はしょっちゅう耳にしていた。何をやらせても器用以上で、ドリアン・グレイのように年を取らず、次から次に目覚ましい仕事をしていた。しかし彼の十八番は競馬で、牧さんと一緒のところを競馬場で見かけたという話を人から聞かされた。彼は幾度も結婚し、月々払うべき別れた細君への慰藉料が何人分とかあったそうだから、たとえ競馬でいつも大穴を当てていたとしても生活は楽ではなかっただろうと思う。  野崎君は昨年、数ヶ月もの間昏睡状態を続けたあげくに死んだ。牧さんは彼との間に出来た子供を抱えて、どうにかその傷手から立ち直って働いていると、先日久しぶりに彼女の妹に会った時に、その妹が教えてくれた。  野崎君の一生は、恐らくは好きこそものの上手といった、趣味に徹した生涯だったのだろう。多くの女を愛し、また愛され、彼が死んだ時には彼女らは黒い喪服を着て心から涙を流したに違いない。私は彼を羨しいとまでは思わないが、しかしそうした生きかたもまた一つの生きかたであることを認める。私が療養所にいた頃に、多くの若い患者たちが、自分の好きなことのほんの一つさえもし遂《おお》せないで、空しく死んで行くのを見たが、すべての人の生涯はその一人一人にとって、それなりに釣合の取れているものであろう。    仲人  私は信濃追分に小さな山荘を持っていて、もう十年の余になるが毎年せっせとそこに通うのを常とした。身分として教師業をも兼ねているから、せっせと行くといっても授業のある間は行くことが出来ない。従って最も長い期間滞在するのは当然暑中休暇ということになり、その他には春休み、五月のゴールデンウイーク、秋休み、そして冬休みと、とにかく暇さえ見つけては出掛けていた。それがここ二三年、細君が病気になって置いてきぼりを食わせるわけにもいかないから、とんと御無沙汰ばかりしている。最近は信濃追分も次第に別荘人種が多くなり、軽井沢の出店の感があって、中仙道の廃駅という趣きがだいぶ失せたらしいので、それほど残念がっているわけではない。但し実地を見ていない以上、負け惜しみと言われればそれまでである。  私が信濃追分の話を始めたのは、前回に寂しいことを書いたので今度は縁起のいい話で持ち直そうというつもりである。信濃追分という土地は堀辰雄と立原道造とによって名が売れているのでも分る通り、どうも結核の予後を養うのにふさわしいらしい。私たち夫婦も御多分に漏れない回復者だから人のことは言えないが、高原の空気は清浄で確かに病気に利くような気がする。もっとも堀さんの宣伝がなければ、こんなにはやったかどうかは疑わしいが。  さて或る年、ここの油屋旅館に一人の独身の青年が予後を養っていた。私の友人である劇作家の弟子で、その縁故で私を訪ねて来たものだ。何しろ私の山荘は旅館のすぐ裏手にあるので交通の便がよく、夏の間は若い連中の溜り場の如くになる。彼は育ちのよさを思わせるおっとりした好青年で、どこが悪かったかと訝《いぶか》るほどに血色も宜しく、それが歯がゆい程ゆっくりした口調で映画や新劇などを論じた。私はせっかちの方だから、しょっちゅう彼の話を途中ではぐらかして、この生き馬の目を抜く世の中に、こんなに間延びのした演劇青年では行く末心許ないと心配していた。仮にその名前を太刀夫君としておこう。  私の山荘からちょっと離れた林の中に瀟洒たる洋風の別荘があり、そこに可愛いお嬢さんが若いお手伝さんと二人で暮していた。こちらの名前はみどりさんとしておく。彼女の両親も時々は姿を見せたが、お父さんが開業医なのでそうそうは来られないらしい。それなのにみどりさんは手術後、この寂しい土地で冬越しをしたというのだから偉い。私たちも冬休みを信濃追分で過したことは何度もあるが、雪は割に積らないかわりに西の季節風が吹きすさんで、信濃追分の冬はまさに北海道なみである。二月には零下十五度まで下るそうだ。(私は少しずつなら殆ど一年中の季節を知っているが、さすがに二月だけは行ったことがない。学校が試験期で多忙のせいもあるが、話に聞いただけで寒さに顫えたためである。)その冬を、土地の人であるお手伝さんと二人きりで過したとは、その勇気、大の男にもまさる。ところでこのお嬢さんも例によって文学少女らしく堀さんの愛読者だったから、自然と私の山荘に遊びに来るようになった。  そして夏の一日、たまたま太刀夫君とみどりさんとが、私のところで顔を合せる破目になったとしても、決して小説的なこしらえごとではない。狭い土地がら理の当然の話である。その二人が連れ立って辞去したので私が送って行き、近くの岐《わか》れ道のところで立ち止って私が余計なことを言った。こういうお喋りは、どんなに不断から自戒していても、つい口を衝いて出るものである。 「この土地がいくら堀さんの小説の舞台だからといって、地で行っては困るよ。君たち、あまり仲よくならないようにしてくれよ。」  我ながら愚かである。  その翌年、太刀夫君は民家を一軒借り受けて、お母さんと二人で一夏を過した。彼は何しろ母一人子一人という育ちで、このお母さんが昔ふうの格式のある、それでいて心持の実にやさしい人だ。みどりさんは依然として瀟洒たる洋館に住んでいて、御両親が見えるたびに我が家とも交渉が密になった。ただ才子佳人が我が家で落ち合うことは殆どなくて、私は前の年の放言のことはすっかり忘れてしまった。それからまた一年経ったか二年経ったか、太刀夫君は或る劇団に演出家として復職し、みどりさんの方は相変らず山暮しを続けていたようである。  こういう話は、どうも結末が先に割れているから、面白おかしくというわけにはいかない。とにかく私は太刀夫君から、みどりさんと結婚するから仲人をつとめてくれとの申し入れを受けた。青天の霹靂というのは少し大袈裟だが、しかし本当にびっくりした。太刀夫君のお母さんはみどりさんが気に入り、みどりさんの両親は太刀夫君が気に入って、身体が弱いといっても医者がついているわけだから心配は要らないだろうし、よく考えれば確かに似合いの花婿花嫁であろう。賛成である、但し仲人は厭だと返答した。  仲人が厭だというのは主義の問題である。私は昔から冠婚葬祭には出ないと極めている。そもそもの初めは、何しろ貧乏暮しで礼服なんか持ち合せていないし、大体私はネクタイというものをしない。ネクタイをして首を締めると気分が悪くなると称して、ネクタイをしなければ行かれないような場所は当方で御免こうむる。それに大学の教師ともなれば、にこにこしていようものなら女子学生は卒業すれば端から結婚するにきまっているから、しょっちゅう結婚式に引張り出されて、とても身が持たない。もっとも葬式は別で、しかたなしに黒いネクタイを買って、幾つか例外をつくった。しかし本当は葬式にも行きたくはないのである。 「というわけだからね、仲人はお断りだ。そんなものは一度もしたことがない。結婚式にだって出ない位なんだから。」 「それは駄目です。僕たちが結婚するのは、すべてあなたの責任ですよ。」  この時ばかりは、太刀夫君は頑として譲らず、弁舌爽かにまくし立てて、聞いているうちに段々にその責任とやらが思い返されて来た。口は災いのもととはよく言ったものだ。結果的にこれを見るならば、私がけしかけて二人を仲良くさせたと言われてもいたしかたがない。とうとう陥落して、ネクタイで首を締めて、来賓のお客さんたちに一人ずつお辞儀をした。そのためあと一週間ぐらいは首がまわらず、仲人業が如何に大変なものか痛感した。  その後この御夫婦は順調そのもので、病気の方はとうに退散し、既に子供が二人ある。太刀夫君は立派な演出家になった。あの仲人押しつけの一幕を見ても、彼の演出の腕のほどは推して知られる。  ところでついでに白状すれば、仲人というのをもう一組やらされたことがある。この青年は仮にタケル君としておこう。これまた信濃追分の常連で、追分畸人伝では相当に有名な人物である。というのは彼は毎夏、もう十年ぐらいは行っているだろうが、年ごとに滞在する場所が違って、民家を次々に取り替える。どうして君はそんなに毎年変るんだと訊いたら、先生だって引越が好きじゃありませんかと逆捩じを食わされた。  私が引越を趣味とすることは、前に書いたから御承知の通りだが、実を言えばこのタケル君は嘗て私の引越委員長だったことがある。その頃彼は大学院の学生だったかと思うが、とにかく頭は綿密、手先は器用、骨惜しみを知らず、如才がないと来ては、まるで引越のために生れて来たようなもので、たいへん有難かった。そして彼は某大学に就職したが、給料は安くても何としてでも教師にならなければ、夏になって追分に行かれないという口実で、他の就職口をみんな断ったという変人である。そして夏ごとに居を変えるから追分の内情に通じていることは村人なみで、お蔭で私も面白い話をたくさん聞かされた。  そのタケル君が、結婚するから仲人をつとめてくれと言い出した時には、私は大いに困った。何と言っても前例をつくったばかりである。お嫁さんの方を知らないからな、ととぼけて見せたら、忽ちそのお嬢さんを連れて来た。この人の名前がまた同じみどりさんで、その無邪気な顔を見ているうちにとても断るわけにはいくまいと諦めた。私が変人ぶりにかけては一段上だということは弟子の方こそ知っていようが、罪もないお嬢さんにそれを説明することは難しい。  いよいよ結婚式の当日になって、その頃から私の細君は具合が悪くなっていたために出席できず、同僚の奥さんを拝み倒して代役をつとめてもらった。同僚というより先輩の大教授の奥さんである。その結婚式が少々変っていて、雛壇のようなものがあり、そこに新郎新婦を間に置いて私とその奥さんとが腰を下す。一段低い前方に椅子を並べて来賓各位がこちら向きに居並ぶ。私のすぐ下のところに、私の中学時代の恩師が、今はタケル君の奉職する大学の上役として着坐されている。たくさんの人が顔を見ているから、ネクタイで首がしまっているせいもあり、かっと血がのぼって安き心地はしない。  型通り私が新郎新婦を紹介し、来賓の挨拶がほぼ終ったところで(実を言うとその時まで、私の前にいる老先生が中学の恩師だとはつゆ気がつかなかった)、いきなり隣にいた新郎が椅子から立ち上った。そして一席のスピーチを始めた。  確かにこの結婚式は一風変っているようだと、経験に乏しい私もうすうす気がついてはいたが、新郎が演説をぶつなどというのは予想の他である。しかもタケル君の話が、どうも仲人のことで持ち切りである。つまり大学で私に教わったとか、追分で私の家に入りびたりだったとか。私は小声で、「おいよせよ。いい加減でやめろ、」とたしなめていたが、そのうちに彼は万感こもごも胸に溢れたらしく、私の名前を一声口走ったかと思うとほろほろと落涙した。ああその時の私の気まりの悪さ。金輪際もう仲人なんかするもんじゃないと胆に銘じた。  タケル君とみどり君のこっちの方も、赤ちゃんが生れて万事順調である。私が仲人をつとめた二組は、理想的にうまく行っている。但し私は仲人はもうこりごりだから、以後花嫁がみどりさんという名前でない限り、一切断るという口実を用いている。    蕎麦と芹  信濃追分も次第に人家が立て込んで畑が少くなった。それでも夏になれば、身の丈より高い|とうもろこし《ヽヽヽヽヽヽ》の畑などが今でも見られるだろう。最も減ったものは蕎麦《そば》の畑である。一面に白い花の咲いた蕎麦畑が浅間山の麓にひろがるのを見るのは、心が洗われるような気持のよいものだった。私のところでは自給自足を旨とし、庭を菜園にして大抵の野菜は栽培することにしていた。それを或る年の夏、蕎麦にまで手を延したことがある。狭い庭の片隅に、葱やキャベツと並んで少々の面積を占めていたが、蕎麦畑ははるばると連なって風に吹かれている景色に趣きがあるので、十坪ぐらいの広さではお話にならない。それでも小さな花が無数に咲き、その頃飼っていた犬がうれしがって畑の中を駆けまわった。秋ぐちになって東京へ引き上げる時に、懇意な村人の一人である井戸屋の茂ちゃんの嫁さんに、この自家製の蕎麦を収穫して製粉所に出してくれるように依頼したが、あまりに量が乏しくて粉に碾《ひ》くには足りなかったそうである。所詮は鑑賞用にすぎなかったか。  蕎麦は何と言っても、この新蕎麦を冬の寒い時に食うに限る。酷寒の信濃追分にわざわざ正月を過すような物好きを試みたのも、理由の一つにこの新蕎麦の味があった。土地の人たちにとっても最大の御馳走であり、手作りのを当方へお裾分けしてくれる。どこの家にも特製の板と麺棒とがあり、茂ちゃんの家のお婆さんは薄く延すことの名人で、それを嫁さんがすだれに切る。但し切る方の名人は豆腐屋の信ちゃんの家のお婆さんで、鳥目なのに手先の勘だけで庖丁を操り、その蕎麦の細きこと糸のごとしというので、わたしなんかとてもかないませんと茂ちゃんの嫁は謙遜した。昔は蕎麦切りの技術は嫁入りの資格の一つだったらしいが、年寄りが少くなると共に、技術も低下しつつあるのはやむを得ない。信ちゃんの家から届いた蕎麦切りは、まさに芸術品のように細かった。つなぎを一切用いず、完全に蕎麦粉だけを捏ねてそれを薄く延して切るのだから、神技と言うほかはない。細君がちょっと俎板と庖丁で真似をしてみたら、みみずの如きものしか出来なかった。但し垂れの味加減は細君の方が遥かに腕が上である。  この蕎麦切りの薬味は芹《せり》に限る。芹がなければ画竜点睛を欠くことになる。信濃追分の冬は雪がすくないと言っても、二寸や三寸の雪は残っているが、その雪を掻き分けて川っぷちに行き、滑り落ちないように注意しながらほんの少々生えている芹を摘む。水に洗われているあたりの、残雪の下を手探りでさがすのだから、指が切れるようである。その川も、流れのゆるやかな川べりには薄く氷が張っていて、満目蕭条、そこに小指ほどの長さの、鮮かに緑色をしたのを摘み取った時の心持は、およそ風流のきわみと言ったものだろう。この凍りついた芹を刻んで薬味にするのだから、これがうまくなければどうかしている。  この冬は勿論出掛けることが出来なかった。それを憐んでか、村の人が蕎麦粉を送ってくれた。みみずにしてしまうのは勿体ないから蕎麦掻きにして賞味したが、たちどころに雪に輝く浅間山や、枯れ枯れとした畑や、樹氷の林や、水の乏しくなった小川などが、眼に見えるようだった。四月の末にならなければ春とは言えないあのあたりで、芹だけは今頃も青々と茂っているだろう。   芹一寸硯を洗ふ寒さかな    さくら  昨年の四月には京都に滞在し、丹波の常照皇寺のしだれ桜をはじめとして都の名ある桜をあちこちと見物した。今年は隣家の違反建築事件で身体の自由が利かず、春になってもずっと家の中に閉じ籠って待機の姿勢でいなければならないから、この分では花見になんかとても行けそうにない。  この頃は花見という言葉も復活して来たようだが、桜そのものが天然記念物に近くなって保存のために大わらわの有様だから、見物の方にもそれだけの用意が要る。戦前はどこへ行っても桜ばかりで、飛鳥山とか上野とかへわざわざ行かなくても、近くを散歩すれば間に合ったような気がするが、一つにはこちらも年が若く、めったに桜ぐらいでは感心しなかったということもあるだろう。桜のよさは、やはり年々歳々の想いを繰返してからでなければ、あの短い間に、五分咲きとか八分咲きとか言って惜しむことにはならないと思う。桜はその咲きはじめがいいとか、散りぎわがいいとか言っても、それは長年の桜についての記憶が、いま眺めている風景に重なり合って浮んで来るからで、或る場合には、人は花見に於て過ぎて来た時間を眺めているとも言えそうである。雪月花などという日本的な特産物は、それが季節感の代表であると共に、また日本人の時間的観念とも密接に関係している。「はかなし」とか「移ろう」とか言う時に、まず思い浮べるものは桜である。  私が旧制の第一高等学校に入学したのは、満で数えれば十六歳の時で、生意気な口は利いてもまだ子供子供していた。一高は本郷の東京帝国大学と隣合せで、私が二年生の時の九月の学期から、駒場にあった農学部と入れ換えになった。従って私は幸いにしてその両方を半分ずつ知っているわけである。駒場の鉄筋づくりの寄宿寮に初めてはいったのは名誉に違いないが、本郷のあのきたならしい木造の寮舎の最後を知っていることの方が、遥かに貴重なような気がする。私たちはいよいよ明日から夏休みという最後の晩に、部屋の中で焚火をして、それを囲んで寮歌をうたいながら夜遅くまでこの建物との別れを惜しんだ。天井の羽目板が焦げる程で、よくまあ火事に至らなかったものと感心するが、どの部屋も皆一斉に火を焚いて騒いでいた。一つには我々が駒場に去ったあと、これらの木造の寮舎は農学部学生の実習用の豚小舎になるという噂が流れていて、それ位ならいっそ燃えてしまえという気持もどこかにあったのだろう。実際には豚小舎にさえも使えないで、取り壊しになったそうである。  当時の一高は皆寄宿制度で、入学した以上は寮生活をしなければならなかった。私が入れられたのは中寮五番という弓術部の部屋で、それまでは家庭にいたのだから、実にびくびくものだった。細長い廊下があり、その右側に自習室が十ばかり並んでいる。一部屋には十足らずの机と椅子がある。二階も同様の仕掛で、この方は寝室になっている。部屋の中央に廊下から直角に折れて窓まで通路があり、その両側は一段高く畳敷きになっていて、そこには大抵万年床が幾つも敷いてある。自習室の窓際のすぐのところに、桜の木が並んでいた。  それでも新入生同士はすぐに仲良くなった。夕食後は先輩が寮歌の指導をしてくれる。窓枠のところに腰を下し、足をスチーム用の鉄管の上に乗せて、調子の外れた声で怒鳴っていると、満開の桜がはらはらと散って来る。消燈時間になり、二階の寝室に引き上げて横になっても、やはり開いた窓から小気味よいように花片が吹き込んで来る。そして朝になって目が覚めると、枕のあたりに勿体ないほどの花片が落ちていた。  その頃の一高生は蛮カラを美風と思っていたから、腰に手拭をぶら下げ、朴歯の下駄を履いていた。しかし弓術部の生徒は和服を着ることが多く、従って袴をつけていたから、下駄履きでもさしておかしなことはなかった。夜寝ていると、遠くの方から下駄の音を伴奏に、節まわしの鮮かな寮歌の合唱が次第に近づいて来るのは、これまた風流なものだったと思う。もっともその連中がストームをやりに来る時は一大事で、一斉に蒲団をひっぺがされてこん畜生と思っていたものだ。  その蛮カラの中に寮雨という穏かならぬものがあった。各々の寮舎から出外れた先に、別棟になって便所があったが、上級生になれば誰もそんな遠くまでは行かない。自習室の窓からひょいと試みる。梅雨時になるとその臭気は物凄い。それに夜は二階の窓から試みるから、下の自習室で蝋勉(消燈時間が過ぎてから蝋燭を立てて勉強すること)などをしていると、風の吹きようでは飛沫《しぶき》を浴びることがある。しかし新入生はまだお行儀がいいし、いくら簡便だといってもその風習にすぐには馴染めない。寝てから催して来ると、しかたがないから別棟の便所まで歩いて行くということになる。  その頃は本郷のこの弥生ヶ丘のあたりは暗くて寂しかった。不忍の池を隔てて黒々とした上野の森が見え、動物園の猛獣が物凄い声で吠えるのが、手に取るように聞える。その上に昔からの言い伝えという七不思議があり、その筆頭が中寮の明かずの便所である。昔その中で或る生徒が首をくくったという。三つか四つ並んだ大便所のその幾つ目だったかは忘れたが、とにかくそこには絶対に誰もはいらない。深夜そっちの方を横眼で見ながら用を足し、ライオンの遠吠を聞いている時の心持は、恐ろしいとも何とも。しかしその便所から逃げるように外に出ると、そこにも美しい夜桜がはや盛りを過ぎて、夢のように残りの花片を散らせていた。  昔の学生は(一高ではまだ生徒としか呼ばれていなかったが)たとえ寄宿寮というような団体のなかに所属していても、一人一人が自分の孤独を大事にしていたように思う。この頃は大学生のみか高校生までが集団となって騒動を起している。確かに彼等の言うことにはそれだけの理窟があるだろうし、私は詳しいことは知らないから戦後民主主義も遂にここまで来たのかと感じるくらいだが、ケースによっては彼等の肩を持ってもいい。私の勤めている大学では騒動の気配もなく、それはそれで多少もの足りない気持がしないでもない。もっとも私のような弱虫は、万一学生に詰め寄られてものの二時間も缶詰にされれば、ひとたまりもなく気絶してしまいそうである。だから余計なことを言う資格はないのだが、ただ集団を背景にしなければ意見が述べられないというのでは困る。つまりは自分の中にある孤独を失わないようにしてもらいたい。その孤独が真に革命行為につながっているとの確信もないのに、衆をたのんで軽挙妄動するのは私は嫌いである。もしも学窓を出てから二十年経って、校庭に桜が咲いていたかどうかさえ覚えていないというようなことになったら、あまりに寂しいではないか。    道 「道」という日本語は、何となく象徴的な感じを伴っているような気がするが、それは「未知」と同音であるための聯想によるものだろうか。もっとも普通は、道という言葉は道徳的な印象を与えるようである。これは論語の中にある、子曰ク朝ニ道ヲ聞カバ夕ニ死ストモ可ナリ、をすぐに思い浮べるせいだろう。と言っても、それは私等のように中学生時代に漢文で論語を教わった人間に特有の聯想で、若い人たちには高速道路を車で飛ばす時の快感の方が先に来るかもしれない。斎藤茂吉の「あらたま」に有名な歌がある。   あかあかと一本《いつぽん》の道とほりたりたまきはる我が命なりけり  私たちは昔誰でもこの歌を知っていて愛誦した。恐らく青春というものを象徴的に表現した、こんな短い詩句は世界にも稀なのではないだろうか。この歌の眼目は「あかあかと」にある。「作歌四十年」という作者自解によれば、「秋の国土を一本の道が貫通し、日に照らされてゐるのを」表現したものということになっている。そこには当然芭蕉の句が意識的に働いているだろう。   あかあかと日はつれなくも秋の風  赤く焼けただれた太陽と、その太陽に照し出された野や山の風景、とするとこれは残暑のきびしい夕刻ということになる。「奥の細道」の中の金沢と小松との間に「途中|※[#「口+金」、unicode552b]《ぎん》」として入っているから、季節は晩夏、そこに初秋の風が吹きすぎて行く。しかしこれを独立した句として味わえば、秋の終りの透明な空気を貫いて、真赤な火の玉のような太陽が西空に真丸く浮び、荒涼とした芒の原を風が凄まじい音をひびかせて過ぎて行く、と取る方がふさわしい。  しかし茂吉の歌の方では、「あかあかと」は寧ろ真夏のぎらぎらした太陽が、道のこちらから向うまでを一直線に照し出している光景で、「赤々と」よりは「明々と」の意味に取る方が自然かもしれない。歌集「あらたま」の中では、「一本道」の連作八首の最初の歌で、第二首「かがやけるひとすぢの道|遥《はる》けくてかうかうと風は吹きゆけにけり」、第六首「こころむなしくここに来れりあはれあはれ土の窪《くぼみ》にくまなき光」などから見れば、時は夕刻ではなく日中の感じである。ただ芭蕉の句を本歌取りしているために、「あかあかと」が真赤な太陽を聯想させ、独立して読む時には夕暮の残照に赤く染った一本の道を彷彿たらしめる。作者自身が、「この一首は、私の信念のやうに、格言のやうに取扱はれたことがあるが、さういふ概念的な歌ではなかった」と述べているものの、写生が極まって烈しく心情が吐露している点に、私たちは惹きつけられたものであろう。  もう一つ、高村光太郎の次の二行が、やはりすぐに思い出される。   僕の前に道はない   僕の後ろに道は出来る  これは「道程」という九行ほどの短い詩の初めである。この方は「信念のやうに、格言のやうに」と言い切っていいもので、高村光太郎の出発の宣言であり、若々しい自信と情熱とに充ちている。  というふうに、「道」という言葉はどうも教訓的な意味合いを持ちやすい。しかし私がこんな枕を置いたのは、決してお説教をするためではない。単なる感想である。  この春は東京には幾度も大雪が降ったが、都心で三〇センチも積った三月十二日の大雪の日のことである。その日の昼すぎの下田行急行に朝日新聞のM記者と共に奥伊豆に行く予定になっていた。朝のうちから猛烈な降りで、電話でM君と打合せたが、とにかく強行しましょうということになって、準備万端ととのえて皮のズボンに皮のジャンパーといういでたちで、家をあとにした。通りに出るまでに足は取られる、傘は飛ばされそうになる、それでタクシイは来そうもないし、これは困ったなと思ううち、幸いにも空車が来たので駅まで行き、小田急線で新宿に到着した。中央線は不通なので地下鉄で東京駅に着いたのが、発車十分前の正午だが、東海道線はすべて不通というアナウンスである。M君は三十分ばかり遅刻して現れたが、しかたがないからお茶でも飲んで様子を見ましょうと地下の喫茶店に出掛けて行った。  この旅行の目的は朝日新聞の読書特集欄の舞台再訪という記事のために、「海市」という私の小説の舞台を訪ねることにあった。私の方の都合で出掛ける日取を遅くしてもらったので、締切を考えるとこの日がぎりぎりに近い。尚も無理をしてもう一日延期するか、それとも列車が動き出すまでこのまま待っているか、容易に決心のつかない問題である。喫茶店は次第に混んで来て、情報によれば地下鉄も札止めとのこと、これでは家に帰るのもむつかしそうだから、いっそ有楽町の朝日新聞社へ行って、そこで待機しようと相談が纏った。  それが午後の三時頃、東京駅の構内はまるでパニック状態で、目の色を変えた人たちが右往左往している。敗戦直後の混乱時代を思い出した。私は小さな鞄を二つ持っていたから、その一つをM君にあずけ、中央口からいよいよ降りしきる雪を衝いて歩き出した。  バスは少しばかりのろのろ運転をしているが、諦めて歩いている人の方が待っている人よりも多い。しかし歩くと言っても、雪は靴をすっぽり埋め、それが溶けかかっているから滑りやすいし、ややもすれば手にした傘を風に取られそうになる。M君は上手に案内して、ビルの廊下を通り抜けてなるべく近距離を、しかも安全に、辿り着こうとしてくれたが、一歩建物の外に出ると難行苦行である。ビルの上から雪の塊りがどさんとばかり落ちて来る。頭に気を取られていると足の方がお留守になる。  東京駅と有楽町駅との間は、距離にしてごく近い。歩いて十分ぐらいのところである。この同じ道を私たちは一時間近くもかかって、やっとの思いで朝日新聞社に辿り着いた。私は雪が降るとじっとしていられないくらい雪見は大好きだが、この時ばかりは風流という感じはまったくしなかった。  私たちは夕方の七時頃まで社にとどまり、雪が歇《や》んだところで東京駅から新幹線で熱海に出、そこから鈍行で下田に向った。途中で三度も乗り換えをさせられた。宿に着いたのは十一時過ぎである。  その翌日、やっと子浦から落居へ向った。私は小説の中で地名を少しずつ変えて用いたが、子浦から峠を越えて落居に出る場面は実際の経験を生かして、殆ど写生である。私がその峠を越えたのは五年ほど前で、季節は一月ほど遅い四月だったが汗みどろになってふうふういわされた。実を言うとその峠みちをもう一度歩くのは大儀なので、何とか遊覧船で行きたいと考えていたのに、前日の低気圧の名残で海は大荒れ、船は出ていない。もっとも雪は伊豆地方にはまったく降っていなかった。  ところが按じた峠越えの山道の代りに、今では自動車さえ通れる別の迂回路が出来ていて、その平な道を眺望をたのしみながらぶらぶら歩いて、あっというまに落居に到着した。M君に難路だとおどかして、しかし船の手配はつけてあるなどと先走って言っておいたので、すっかり恥をかいた。  同じ道でも、二度目は楽になるか苦になるか分らないというのが、私の感想である。これでも何かの教訓になるかしらん。    講演嫌い  私は講演会とか座談会とかいったような、人前で話をすることは大の苦手である。頼まれても大抵はにべもなく断る。よくよく義理が悪くて引受けたとなると、いざその時が来るまで自分が自分でないような厭な気持でいて、やっと話が終ってから我にかえる。話下手というのは一種の性格だろうが、私の場合は見ず知らずの他人の前に顔を見せるのは御免だという、一種の厭人癖も作用しているだろう。あなたは教師業だから馴れている筈だと咎められても、大学の教師は身すぎ世すぎだからしかたがない。それに十何年も勤めているのに、教師業が少しでもうまくなったかと言えばそんなこともないし、顔を知らない学生がずらりと並んでいるのを見ると今でも脅威を感じる位だ。私は早口の方だが、少し喋っていると話したいことがすぐに尽きてしまい、あとの間が持てない。原稿を書くのはすこぶる遅くても、原稿用紙の方は待ってくれるが、口で喋る方は相手が待ってくれないということがある。  若い頃はそれほどでもなかった。けっこう活溌に喋っていた。結局はサナトリウムで長い間暮していた間に、段々に性質が内側を向くようになって行ったのだろう。その性質が次第に固定して、もう変えることが出来なくなった。そこで思い出したのは、もう七年も前のことだが、島根県の石見大田《いわみおおだ》というところにある高等学校から頼まれて、秋の文化祭のために講演に出掛けたことがあった。その時のことを考えると、今でも身体が顫えて来る。  高等学校の女の先生から丁重を極めた手紙が来た。僻遠の地で恐縮だがぜひ講演をしてもらいたいという文面を読んでいるうちに、次第に気持が動き始めた。講演は厭だけれども、それさえ我慢すれば山陰へ出掛けて行くよい機会である。往復の旅費に二泊分の滞在費を向うで持ってくれるのだし、そこを足がかりにすれば他へも廻れるだろう。大体私はその時まで日本海を見たことがなかった。ぜひ行きたいとかねがね望んでいながら、何しろ無精者だから自分から発案することがない。そこで手紙のやり取りを重ね、細君の分はこっち持ちで同伴ということにしてもらって、スケジュールをきめた。向うは玉造温泉と三瓶温泉とに宿を取ってくれると言う。私たちはそのあと、出雲、松江、倉敷、広島、京都などに足をのばす予定である。細君の方は、何しろ結婚してから初めてぐらいの大旅行だから悦んでわくわくしているが、私にしてみれば厄払いの講演が済まない限り、ちっとも愉しいことはない。きめてしまってから取り消したい気持が何度も襲ったが、後の祭である。  いよいよ東京駅から出発したが、夜行を使って一気に行くだけの体力はないから、まず京都まで行き、翌朝早くに出る特急に乗るために駅のホテルに泊った。しかし気持は落ちつかないし、旧式のホテルは天井裏を鼠が走りまわるので、まんじりとも出来なかった。  次の日の午後おそく松江に着くと、駅頭で初対面のN女史に出迎えられ、そこから玉造温泉に案内された。N女史は私よりも年上の、親切そうな先生である。宍道湖《しんじこ》に沿って自動車で走って行く間じゅう、灰色に暮れて行く風景に眼を遣りながら腰折などを按じていた。下手なのは心ここになかったせいである。   みづうみの鴨の羽がひをそぼ濡らす      しぐれは過ぎて夕べとなりぬ   みづうみに浮きつつ眠る鴨の群      しぐれとともに流れ行きけむ   宍道湖の北より落つるしぐれ雲      浮べる鴨を見わけずなりぬ  宿屋に着き、N女史が翌日の予定を打合せて帰ってしまってからは、時間はたっぷりあった。散歩をし、風呂に入り、夕食を終ると、細君は疲れたと言って寝てしまい、私の方は講演の下書きを作った。これがちっともうまくいかない。とんだことを引き受けたと、こんな遠くまで来ていながらまだ嘆いている。この次からは絶対に断ると固く決心した。  翌日はいよいよ本番の日、玉造から汽車で石見大田へ向った。石見大田は山陰本線で約一時間のところにある。駅から高等学校へ近づくにつれて安き心地はしない。松並木の向うに三階建ての校舎が見えて来た時には、やけのやんぱちである。細君がわたしも聞きたいわと言ったから、とんでもないと怒鳴りつけて、駐在の新聞記者に頼んで土地の旧家を案内してもらうことにした。しかし細君はもともと物の数ではないから、それで落ちついたというものではない。  それではどうぞと連れて行かれたのは別棟になった雨天体操場兼用の講堂である。入ってみると驚いた。演壇に題名と名前をしるした大きな幕が下っているのもさることながら、広い講堂の板の間にびっしりと生徒が静坐している。男子と女子と半々ぐらいだろうか、全部で千人はいる感じである。その上壁沿いには折り畳みの椅子が並んで、そこをずらりと占めているのは先生がたなのだろう。これは大変だぞと思うとかっと血がのぼって、校長先生の挨拶も、生徒委員の紹介も、上《うわ》の空で聞いている。何でも島根県の高等学校が廻り持ちで文化祭を開き、今年は大田高校の当番だというので、集まったのはこの学校の生徒だけではないと見える。演壇に立ったら生徒たちが一斉に拍手をしたから、せっかく思いついていたことまで、みんな忘れてしまった。  それからの一時間、まさに悪戦苦闘した。何を喋ったのか少しも覚えていない。石見の人森林太郎の話を枕にして、そのあとは脱線ばかりしていたようである。その間の生徒たちのお行儀のよさ、私の教えている大学では女子学生が多いせいか、ややもするとひそひそ話をする手合がいるが、ここでは私の顔を注視したまま、まじろぎもせずに眼を光らせている。こちらが一息入れるために口をとざせば、その短い沈黙さえも彼等に悪いような気がする位だ。せっかく東京から招んだ先生の演説が、こんなに下手では申訣がないと、冷汗を流していた。  やっと終って、次に有志の生徒たちと座談会ということになった。この方はまだしも気楽だった。それが済むと、寒風の吹きさらしの中で凍えた身体が暖い室内にはいった時のように、少しずつ人心地がついて来た。三瓶温泉に案内されて、そこで先生がたと宴会があり、我々夫婦だけ取り残されたところで、あとはこっちのものと気が大きくなった。うまく行った? と細君が訊くから、まんざら捨てたものじゃない、と空威張をしておいた。しかしその後この種の講演会というと言下に断るようになったのは、よくよく胆に銘じたからだろう。  そのあとは格別のことはない。あくる朝は早く起きて、三瓶山の名物という雲海を見たし、波根《はね》という海岸で小石などを拾った。松江に泊って宍道湖の夕焼を心ゆくまで眺めたり、出雲大社を見物したりした。出雲の宿屋に泊っている時に、N女史から電話が来た。「山陰はいかが。人生の一点にゆくりなくもめぐりあいし御夫妻の前途の御健勝を祈る、」というのである。私たちはそれから中国山脈を横断して瀬戸内海の方に行った。  私がこういう古い話を書いたのは、講演が嫌いだということを説明するためばかりではない。私がその時決心して山陰へ出掛けて行く基《もとい》になったものは、N女史の懇切な手紙を受け取ったからである。帰京した後も心の溢れる礼状を貰った。そういう人にめぐりあったから、私にはこの時の旅行が今に忘れられない。ごく最近も便りが来て、土地で葡萄が採れるようになったから近く送りたいと書いてあった。そういう時、私はこの騒がしい都会を離れて、山陰のひっそりした海辺の村で暫くでも暮したいような、とりとめもない気持に駆られるのである。    晴耕雨読  中学生の頃、たまたま園芸部というのに入会した。好きで入ったのでも何でもない、父親の命令に従ったまでである。父親の意中を忖度すれば、健全なる精神を宿すためには肉体の訓練が必要だが、めったに運動部などに入れて足の骨でも折られたら大変だから、土いじり程度がいいと判断したものだろう。  ところが私は都会育ちのひよわな子供で、およそ園芸らしいものと親しむ機会は、縁日で植木屋をひやかす時ぐらいしかない。せめて家族の者に植木の趣味でもあればとにかく、家族は父親と私と女中との三人きりで老人がいるわけではないし、その父親が掛値なしの無風流で、しかも借家の庭は猫の額ほどと来ているから、これだけ悪い条件が重なったのでは私に園芸趣味が涵養される筈もない。園芸部に入って、部員がまず教わるのは土質の鑑定、肥料の種類、種子の区別、その他もろもろあったに違いないが、下地もなければ興味もないのだから、今では綺麗さっぱり忘れてしまった。  秋になって何やら研究会のようなものが催されることになり、私は朝顔の新種の栽培に関する研究を割当てられた。割当てられたというのが変だとすれば、私が自らその題目を選んだとした方が妥当だが、そんな大それたことを自ら志願したとは我ながらありそうにもない。と言うのはいくら頭をひねっても、子供の私が朝顔を栽培した覚えはまったくないからである。  私は毎日放課後に学校の図書館に通い、あらゆる園芸学の本を借り出し、想像力を傾けて、曲りなりにも一大論文を書いてその成果を発表した。これが文字通りの机上の学問で、一体その通りにやったらどんな朝顔が出来上ったかしらん。万一にも花が咲いたら、とんでもない珍種が誕生したことは請合いである。私はそれに懲りて次の年には園芸部をやめてしまった。  次の話はこれは大人になってからのことだが、戦争の終った翌年、私は北海道の或る都市にいて南瓜の栽培を思い立った。食糧を確保することは当時としては重要な問題だし、その地方は馬鈴薯や玉蜀黍に最も適した地味である。しかし素人に一番易しいのは南瓜だと聞かされたから、ではそれで行こうと決心した。  大学時代からの私の友人が、その都市から汽車で二駅か三駅離れたところに疎開し、本格的な開拓農民として広々とした地所を持っていた。開拓というのは原始林を火薬で吹き飛ばして、それを少しずつ耕して行くのだから並たいていの仕事ではない。好きなようにやってみろと言うので、私は原始林から原っぱらしいものに変化した部分を少々借り受け、そこに鍬を入れてとにかく畑らしい形にし、さて南瓜の種子を蒔いた。一抱えも二抱えもある原始林の木の株が、あちらこちらにまだ腰を据えているような凄まじい畑だが、地味は豊かだから世話は要らないと友人が太鼓判を押している。これで南瓜だけは食い放題だと安心した。鉈割《なたわ》りと称される種類で、その皮は庖丁ぐらいでは刃が立たないほど固いが、中身の美味なことは内地の南瓜の比ではない。  酷寒の土地だから、春から夏にかけて植物の成長は早い。もうそろそろ出来た時分だと思って友人のところへ出掛けて行った。さて行ってみると、私が種子を蒔いたあたりは一面の藪である。身の丈ほどに雑草が生い茂って、どこに南瓜が実っているやら、いくら眼を皿にしても影も形もない。せっせと草取りをしない限りそんなものだよと言って、友人が嬉しそうに笑った。理窟としては承知しているが、あまりのことに明いた口がふさがらない。結局、友人の丹精した南瓜を分けてもらって、自分の作品であるような顔をして持って帰った。あとから思えば、この友人は私に一日のリクリエーションを愉しませるために種蒔きをさせたので、結果はあらかじめ見通しだったに違いない。とんだくたびれ損だったが、素人のすることは大抵はそんなものである。  その素人の私も、信濃追分に山荘を構えてからは、夏ごとに園芸に携わるようになった。この土地も酷寒の上、地質は火山灰地だから北海道なみに豊沃である。四十坪ばかりの土地を開墾して、そこに葱、豆、キャベツ、馬鈴薯、玉蜀黍、胡瓜、などを植えた。蕎麦まで試みた話は既に書いた。こうなると素人とはとても言えないだろう。夏の間、野菜は自給自足、豆や胡瓜は御近所に分けてあげたから証人は大勢いる筈である。  ところで大きな声では言えないが、実はこれにはたねも仕掛もある。私の山荘の隣に宏大な別荘があり、そこに別荘番のおじいさんが住んでいた。そのおじいさんとすっかり仲良くなったので、交渉が成立し、一番初めの開墾はそのおじいさんに万事まかせた。五月の連休に行って種子を蒔いたり苗を植えたりするが、すべて指揮官の言うがままである。そのあと夏休みが来る迄はおじいさんに草取りを一任する。そうして七月中旬に行ってみると、畑は整然と整備され、蔓物には手が作られ、胡瓜などはもう実がついている。そこで私は細君を督促して、もっと肥料をやれとか、虫がついたじゃないかとか、監督さえしていればこと足りる。草むしりぐらいは私でも出来るから、多少の労力をいとわなかったわけではない。  こういうふうに殿様然として夏を過したのは昔の話で、隣の別荘番のおじいさんが老齢で亡くなり、その後うちの細君は病気になって、夏休みに追分へ出掛けることが不可能になった。山荘は閉めっ放しである。夏の東京暮しともなれば、せめて真似ごとでも園芸にいそしみたい。それも細君に出来ないとなれば、往年の殿様が自ら鍬を持つほかはない。この数年、やむを得ず土に親しむ破目になったから、昨年の夏、私が如何に活躍したかを報告する。  南側に日除を兼ねて朝顔の垣根をつくる。西側は糸瓜《へちま》と瓢箪の棚である。朝顔の方は前の年の種子を蜜柑箱に蒔いて苗を育て、それを移植した。糸瓜と瓢箪は花屋から苗を買って来て植えつけた。そのあとは面倒くさいから大抵は放ったらかしである。時には猛然と働くが、くたびれると途中で打切りになる。  目的が日除にあるから、花の方は附けたりだと言えばそれまでだが、朝顔の垣根は確かに葉はみっしりと茂って風も通さぬ勢い、花の方は栄養不足のせいかいっこうに咲かず、咲いてもお世辞にも大輪とは言いがたい。朝顔だか昼顔だか区別がつかない位である。そのうちに夏が過ぎて秋風が肌寒く吹き渡る頃になると、粒の小さいのがむやみとたくさん満開になった。瓢箪の方はそれらしい形までに成長せず、糸瓜はうらなりでひょろひょろとぶら下り、痩身の主人を嘲り笑うようである。しかし野分の風に糸瓜が揺れているのは風流の極みで、大いに自己満足を感じた。  これが去年の話、去年は借家住いでこれだけの苦心をしたのだから、建売住宅を買って曲りなりにも我が家と名がつくものに住んだ以上、庭じゅうを耕して草花から野菜まで栽培してもよさそうなものだ。それこそ中学生の昔にかえって、朝顔の珍種でも研究したいところである。ところが御存じの如く隣の違反住宅に関り合って奔命につかれていたから、季節の移り変りも知らず、去年の種子をどこに仕舞い込んだかも思い出さず、朝顔市のニュースを聞いてあっと驚いても後の祭り。この分では園芸とは無関係な夏を過すことになるだろう。  以上私は、私の園芸趣味が附け焼刃であることを告白したが、それはそれとして晴耕雨読は昔から私の理想である。何も文人を気取るわけではないが、裸足で庭に飛び出して土をいじくり、疲れては昼寝をしたり本を読んだりして暮せるならば、私のような怠け者にとってこれに越したことはない。ところが一輪の朝顔を咲かせるのも、一個の南瓜を収穫するのも、怠け者に出来る業ではない。それなりに額に汗して働かなければならない。ましてや本物の百姓なみに働くのは、まず無理なことが眼に見えている。要するに私は晴れても降っても自分の好きなことだけをしていたいものだと、慾の深いことを考えるが、それが通らないことは説明するまでもない。「山静似太古 日長如小年」といった悠々たる境地に遊ぶには、何と私たちは騒がしい世間に住んでいることか。いくら私がのんきでも、世間の方でのんきにさせてくれなければそれまでである。  ところで右に引用したのは宋の唐庚《とうこう》の「酔眠」という詩の一節だが、これを枕にした文章が羅大経の「鶴林玉露」の中にある。私の愛誦する文章ゆえ、仮名混り文にして引用したい。  唐子西ノ詩ニ云フ、山静カニシテ太古ニ似タリ、日長クシテ小年ノ如シト。吾ガ家深山ノ中、春夏ノ交ゴトニ蒼蘚《サウセン》※[#「土+皆」、unicode5826]ニ盈《ミ》チ、落花径ニ満ツ。門ニ剥啄《ハクタク》ナク、松影|参差《シンシ》タリ。禽声上下シ、午睡初メテ足ル。旋《メグ》リテ山泉ヲ汲ミ、枯枝ヲ拾ヒ、苦茗《クメイ》ヲ煮テ之ヲ啜ル。意ニ随ツテ周易国風左氏伝離騒太史公書及ビ陶杜詩韓蘇文数篇ヲ読ミ、従容《シヨウヨウ》シテ山径ヲ歩シ、松竹ヲ撫シ、|※[#「鹿/(弓+耳)」、unicode9e9b]犢《ベイトク》ト共ニ長林豊艸ノ間ニ偃息《エンソク》シ、坐シテ流泉ヲ弄ビ、歯ヲ漱《クチソソ》ギ足ヲ濯《アラ》フ。既ニシテ竹窓ノ下ニ帰レバ、則チ山妻稚子、筍蕨《ジユンケツ》ヲ作リ麦飯ヲ供ス。欣然一飽ス。筆ヲ窓間ニ弄ビ、大小ニ随ツテ数十字ヲ作ル。所蔵ノ法帖墨跡画巻ヲ展ゲテ、之ヲ縦観ス。興至レバ則チ小詩ヲ吟ジ、或ハ玉露一両則ヲ艸シ、再ビ苦茗一杯ヲ啜ル。出デテ渓辺ヲ歩シ、園翁谿友《エンオウケイユウ》ニ解后《カイコウ》シ、桑麻ヲ問ヒ、|※[#「禾+亢」、unicode79d4]稲《コウトウ》ヲ説ク。晴ヲ量リ雨ヲ較ベ、節ヲ探ルコト数時、相|与《トモ》ニ劇談スルコト一餉ニシテ帰リ、杖シテ柴門ノ下ニ倚レバ、則チ夕陽山ニ在リ。(以下略)  私はこの文章を写した董其昌の書巻を蔵しているが、このような一日こそ文人の理想だったに違いない。私などはせめてこの書巻を展《ひろ》げて、夢路に遊ぶぐらいのものである。    怪談  夏は怪談の季節である。月にさえ人間が到着するこの文明開化の世の中に、今さら怪談でもないだろうと思うが、そうでもない。私はこのところ仕事も出来ずに怠け暮しているから、テレビを見ながら毎日ごろごろしている。そのテレビが、ちっとも怖くない怪談劇をしきりとやっている。もっとも私のところは旧式の白黒テレビで、これが天然色だともう少し怖いのかもしれない。しかし極彩色なら幽霊が本当らしく見えるという筈もない。私はグロテスクなのは厭だから、やはり超自然でひんやりさせてもらいたい。幽霊を見て笑ってばかりいたのでは、かえって汗が出る。  外国だねにも怪談はいろいろあるが、多くは夏よりも冬むきに出来ている。怪談が夏むきなのは日本の特産で、これは俳諧味ということになるだろう。つまりは江戸の味である。ミニスカートよりは浴衣がよく、断髪よりは乱れ髪がよく、電気蚊取器よりは蚊遣りの方がふさわしい。それにブラウン管やスクリーンを通すよりは、やはり舞台の上で見る方が面白い。というのは夏の風物誌として味わうからこそ幽霊が生きて来るので、怪談は寧ろさまざまのアクセサリイで涼味を呼ぶとも言えそうである。  しかし一番怖いのは、人の口から聞いた場合だろう。人情噺も悪くないが、素人の話でも物によってはぞっとする。それは結局こちらが話の中に引き込まれて、たとえ半信半疑でもそれを信じよう、信じた方が面白いにきまっているのだから、という無警戒の精神状態に陥るせいだろうと思う。ところがそんな面白い怪談を聞かせてくれる人はあまりいないから、結局は本で読むのが一番ということになる。テレビや映画は向うから与えてくれるのだが、書物は、必ずしも作者が語り掛けて来るというよりは、読者が積極的に作者の世界に身を入れようとするその協力によって成立している。本気で読まなければ、どんなストーリイも平凡である。そして身を入れて読んでいる限り、読者はその怪談を自分で語っている、或いは身を以て経験しているという気持にさせられてしまう。  私は昔から怖がり屋ではないが、中学生の頃ラフカジオ・ヘルンの「紀伊国坂」を読んだ時に少しばかり顫えた。あなたの出会ったというのっぺらぼうはこんな顔でしたか、と言って顔をつるりと撫でると、その顔がまたのっぺらぼうになるという短い話である。  これは怪談ではないが、今から十年ぐらい前の夏、私たちが信濃追分の山荘にいた時のことである。何しろ娯楽らしいものは何もないから、夏の間に一回か二回、公民館で映画会が催される。村の人たちはあらかた見に行く。世話役が市川雷蔵のファンだというので、出しものはいつも雷蔵主演にきまっている。うちの細君も、識り合いの奥さんに誘われていそいそと出掛けて行った。亭主は留守番。  公民館の中にござを敷き、三々五々に陣取るらしい。別荘の奥さん連中は座蒲団御持参だが、わざわざ古物の映画を見に行くような奥さんは数えるほどしかいない。前売券を買ったお客が揃うまでは映画は始まらないし、子供たちは騒ぐし、一種の懇親会である。さて雷蔵の映画が始まると、満場寂として声なし。すると観客の中のどこぞのおばあさんが、いきなり声を掛けるのだそうだ。 「雷ちゃん、それそこにいるよ。あぶない、ほら塀の蔭さ。」  とんでもない時に、とんでもない金切声で雷蔵君の注意を喚起する。刺客が闇を這って行くと、いつおばあさんが叫び出すか気が気でない、というのが細君の帰ってからの報告。 「ほらそこにいるよ、」と私が声色を使ったら、細君が怖がって一尺も飛び上った。  それ以来うちの細君は雷蔵の贔屓になり、私もまたそれに感染した。その雷蔵がこの間若くして亡くなったのは、本人もさぞ心残りだったろう。病気で衰えた顔を見せるのを恥じて、死顔を人に見せるなと言ったそうである。役者として天晴れな心懸けだと私は思う。    車  近頃のはやりは車の運転である。私はついぞ運転を覚えようなどという浅はかな気持を起したことはないが、猫も杓子もハンドルを握る世の中ともなれば、そのことだけでも時勢におくれた感じがしないでもない。三年ばかり前に、大学院の学生や助手七八名と一泊旅行に出掛けたら、全員が運転免許証を持っていると言ったのでびっくりした。もっとも誰一人として車そのものを持っていなかった。レンタカーを借りましょうかと言われて、大急ぎで断った覚えがある。  私の友人に、三十ははや過ぎて四十にはまだ間がある某という独身の人物がいる。仮に水門《みなと》君と名づけよう。大阪の近郊に住んで大学の先生をしているが、毎年夏になると、信濃追分と小諸との中間にある御代田に、小さな別荘を借りて移り住む。何か洒落れた号をつけてくれと頼まれたから、流麦山房と名づけてやった。蛍の光窓の雪のたぐいで、勉強に夢中になって乾してある麦が夕立に流れてしまったという中国の故事が踏まえてある。その水門君が、同じ勉強でも車の運転という勉強に夢中になった。去年の夏休みのことである。 「君、そんな馬鹿な真似はよせ、」と私がたしなめた。 「大丈夫ですよ。いずれ乗せてあげます。」 「しかし僕はタクシイ以外には乗らないことにしているんだ。それに君の年じゃ、そんなに簡単に免許証を取れやしないさ。」  水門君が一念発起した理由は幾つかある。京阪神三都の大学を掛け持っているから、車があれば通勤に便利だとか、せっかく東名高速道路が貫通したから御代田へ書物ごと移動するのに便利だとか、色々なことを言ったが、私を乗せて走りたいというのも(つまり私をあっと驚かせたいわけだ)理由の一つらしい。そこで夏の間小諸の教習所にせっせと通い、身分がら教習所の先生がたの信用を得て、夏の終りにどうやら所定の教程をことごとくパスした。(水門君の説によると、長野県の教習所は他よりも生徒に厳しいそうである。もっとも東京や大阪の住人で、夏休み中に習いに来ている別荘住いの生徒には、多少甘くしてくれるのかもしれない。今年の夏は私の大学の同僚のO君が、軽井沢から小諸教習所に通ったが、九月中旬になってもまだ教程が残っている位で、週末になると東京から小諸までわざわざ出掛けて行く。その哀れな姿を見れば、決して甘くはなさそうである。教師は厳しければ厳しいほど、私は信用する。)  水門君は今年の初めに新車を買い、手紙をよこすたびに腕自慢の文句を連ねたが、遂に夏休みにはいった七月中旬に、名神及び東名道路を軽々と走破して、意気揚々と東京の我が家に現れた。数日間泊り込んでいる間、毎朝早く起きてせっせと車を磨くのがいじらしい。愛書家であることはかねて認めていたが、これからは愛車家と言わなければなるまい。  いよいよ流麦山房へ出発という段になって、我が家の車庫から車を道路に出す。それが道幅が狭いうえ、何しろ建売住宅だから車庫とは名ばかりの、ぎりぎりのスペースしかない。そこのところをバックで出し始めたら、とたんに、にっちもさっちも行かなくなった。前進すれば塀にぶつかる、後進すれば電柱にぶつかる。私が側に立って、もっと右とか左とか指示しても、これが素人だからかえって運転手を悩ませるばかり。そこに買物袋を片手に子供の手を引いたよその奥さんが現れて、見かねた顔で「それでは駄目。ハンドルを逆に切るのよ、」と教えてくれた。水門君は汗をかいて、別れの挨拶もそこそこに信州めざして消え失せたが、我が家の信用を著しく落したことは間違いない。私が細君に「バックの技術はむつかしいらしいよ、」と取りなしてやったら、細君が「教習所では何でも優等だったと聞いた筈だけど、」と答えた。  今年の夏はむやみと暑かったが、私は自宅から殆ど一歩も出ずに過した。隣家の違反建築のたたりである。その間水門君は、涼しい高原にあって日夜勉学にいそしんだと言いたいが、実のところ車を乗りまわしてばかりいたらしい。技術の進歩はめざましいらしく、早く乗せてあげたいと盛んに勧誘する。私もいい加減くさくさしていたから、九月の初め、数日の暇をつくって流麦山房を訪れることにした。  私はここ三四年を例外として、信濃追分で毎年の夏を過すことが習慣になっていたが、その愉しみは附近の野や原を足で歩くことにあったので、車でドライヴするような趣味はまったくなかった。従って不便な暮しを細君に強いていたわけである。ところが流麦山房に於ける水門君の日常は(もっとも彼は一人暮しで、小まめに動く癖があるとはいえ)、目と鼻との御代田の町へ野菜を買いに行くのにも車である。風呂を沸かすのは面倒くさいと称して、洗い桶に石鹸と手拭を投げ込んで車に積み込むと、モテルに出掛ける。万事この調子で、如何に車が便利であるかを充分に教えてくれた。  地図を按じて、どこか静かなところで寝ころびたいと二人して研究し、田代湖というのに行ってみることにした。中軽井沢から峯の茶屋を通って上州三原に出る(これが瞬くうち)、三原から左に曲って暫くで田代湖に達する。初めて行ってみたのだが、近頃珍しいひっそりした湖だ。湖畔に茶店一つなく、湖上にボート一艘浮んでいない。だいいち人一人いないのだから驚く。堤防の上で初秋の風を満喫しながら、山また山の眺望を愉しんだ。  そこから帰るのに、上田に出る道と小諸に出る道とがある。小諸の方が近い道理だから、高峯高原を越えるコースを選んだが、これが未鋪装の羊腸の道と来ていて、ぐんぐんと登りになる。水門君は運転技術の極意を示して、上手に車を操った。登りつめて、さて小諸側への下りとなってからがまた一苦労で、ごろごろ道を右に左に忙がしくカーヴするうち、大型バスとぱったり出くわして急ブレーキを踏んだら、忽ちタイヤがパンクしてしまった。水門君が汗をかきかき一人でタイヤを取り換えている間じゅう、私は小高い曲り角に立って、山の方から滑り下りて来る車を食い止める役目である。眺望は素晴らしいが、何しろ道の真中に陣取って修理中なのだから気の揉めることおびただしい。さいわい別の車は唯の一台も来なかったし、水門君も事に処して迅速果敢だった。 「パンクしたのは僕の腕前のせいじゃありませんよ、」と水門君は何度も念を押した。    老眼  私は子供の頃から近眼で、小学校の五年生の時に早くも眼鏡の御厄介になった。初めて眼鏡を掛けて黒板の文字を見たら、まるで奇蹟のように鮮かに分るのでびっくりしたことを、昨日のように思い出すことが出来る。それからずっと眼鏡を掛けているから、身体の一部分と同じことで格別不自由を感じたことはない。同年輩の友人が、いちいち眼鏡をはずして本を読んでいるのを見て、君はもう老眼かねなどとひやかして得意になっていた。  私の勤めている大学の同僚に鈴木力衛さんという高名なフランス文学者がいる。今から六七年前のことだが、研究室でたまたま眼の善し悪しの話題が出て、力衛さんが私に、来年の私の誕生日までに老眼になるかならないかで賭をしようと持ち出した。夫子は私よりだいぶ年長で、私の頃にはとうに老眼になっていた。さてその条件というのは、近視の眼鏡を掛けたままで、プレイアド版の註の部分が読めるかどうかというのである。このプレイアド版というのはフランス古典の叢書で、薄手の紙に小さな活字を使ってぎっしりと組んである。ボードレールの全著作なら唯の一巻、バルザックの「人間喜劇」なら全十巻に収まるくらいだから、蠅の頭が並んでいると思えばいい。註に至っては蚊の頭である。  翌年の春になって私の誕生日が来た。力衛さんの眼の前で、プレイアド版の一冊を開いて、すらすらと註のところを読んで見せた。力衛さんは憮然として、それなら来年まで賭を延長しようと言った。宜しい。次の年になっても結果は同じである。こうして一年また一年と経って、とうとう力衛さんも降参し、一体最初に何を賭物にしていたのか二人とも忘れてしまったので、その場の思いつきで、力衛さんが碁盤をくれると言い出した。彼は将棋は素人はだしの腕前だが碁はたしなまない。従って碁盤は無用の長物で、もっぱら碁石がポーカーチップの代りに使われているくらいだから、或いは石の数が少し減っているかもしれないと言った。私は有難く頂戴することにしたが、目下のところ我が家に置き場所がないから、いずれ引越をしてから貰いに行きましょうと約束した。それに碁盤を抱え込むと、我ながら凝りはしないかと心配でもあった。私の腕前はたかが知れているが、下手の横好きということもある。新聞の棋譜を見ているぐらいがちょうどいい。  それから更に幾年かが過ぎて今年の春、私はまたぞろ研究室で力衛さんに自慢をして、相変らずこの通りですよと言いながらプレイアド版の註を朗読した。力衛さんはつまらなさそうな顔をして、もう分ったと言い、ところで碁盤はどうするねと訊いた。貰う約束をしてから二回か三回引越をしたが、いまだに碁盤を置くだけの広い家に住むに至らない。もう少しあずかっておいてくれませんかと頼み込んだ。  これが今までの私の眼の状態である。大学へ通う往き還りの電車の中で、手に書物を開くという習慣が昔からついていた。電車に揺られながら本を読むのはあまりいい癖とは言えない。必ずしも寸暇を惜しむためではなく、自分を他人から隔離したいという無意識の願望かもしれない。下調べが間に合わなくて、難しい原書を車中に持ち込むような場合もあるし、薄い雑誌や目録の類を片手にかざす場合もある。どっちにしても古い近視の眼鏡を掛けたままで、不自由を覚えたことは一度もなかった。  ところが夏休みの少し前から、俄に異変を生じた。どうも電車の中で活字を見詰めていると、時として眼が痛くなる、字と字とが溶けかけたドロップのようにくっついて離れなくなる、というような症状を呈し始めた。もっとも私にしても電車の中でばかり本を読むわけではない。電車の中では腕組をして沈思黙考していればすむが、机の上でも読まなければならない。商売柄これでは飯のたねにも関るから、私もとうとうたまりかねて眼鏡屋に出掛けて行った。まだ老眼という程じゃありませんが、と見え透いたお世辞を店員に言われながら、読書用と称するもっと度の弱い近視の眼鏡を買わされた。つまり今迄の近視より弱くなった分だけ、老眼になった証拠である。  初めのうちは、それほど用いる必要もなかったから、机の上に置きっ放しにして外へは持ち出さなかったが、夏休みが終ってみるともう完全に二つ眼鏡の持主になっていて、片時も離すことが出来ない。教室に出ても、読書用の眼鏡を掛けなければテキストが読めないし、その眼鏡のままでは文句をつけようと思う学生の顔が識別できない。やおら本から顔を起して眼鏡を掛け替える始末である。研究室で力衛さんに、どうやら人並になりましたよと言ったら、彼は嬉しそうににっこりした。考えてみると私のは眼がよかったのではなく、かねがね不勉強であまり本を読まなかったせいであろう。つまりは温存していたというにすぎない。  私のように借家から借家を転々としていた人間は、書庫と名のつく部屋を持ったためしもなく、ありあわせの書籍で満足しなければならなかった。本を買う前にまず考えるのは、財布の中身は別としても、その本の占めるべき空間である。それで大抵の場合は諦めて見送ってしまう。いずれしかるべきところに引越をしたら、あの全集この叢書を買い込んで、心ゆくばかり読み耽りたいと夢想しながら、幾年も幾年も経ってしまった。それがいまだその処を得ないでいるうちに、何と眼の方が衰えて、替え眼鏡を用意しなければならなくなったとは情ない。朱熹の有名な詩をふと思い出すのである。   少年易老学難成   一寸光陰不可軽   未覚池塘春草夢   階前梧葉已秋声  ひょっとしたら朱熹も、老眼になったのを嘆いたのではなかったろうか。 [#地付き](昭和四十三年十一月—四十四年十月)     「十二色のクレヨン」ノオト 「十二色のクレヨン」というのは、昭和四十四年の一月号から十二月号まで、「ミセス」という婦人雑誌に連載した随筆の題名である。連載を始めるに当って題名を考えるのに一苦労し、フランスの文人ヴァレリイ・ラルボーの「黄・青・白」(Jaune Bleu Blanc)にあやかって、何やら色三つの題名をつけようと考えた。もっともラルボーのこの洒落れた題名は、実は原稿を綴じるのに黄と青と白とのリボンを使ったというだけのことである。  そこで私の考えた題名は「藍《あい》・青《あお》・浅黄《あさぎ》」である。頭韻を踏んでいて響きもいい。浅黄は浅い黄色という意味もあるが、浅葱と書くのが本当で、その方は薄い青、つまり水色のことである。三冊とも青系統で、かすかに色調の違って行くところが我ながら渋い。しかしどうも少々渋すぎるような気がしないでもない。  そこで次に思いついたのが「十二色のクレヨン」である。ぐっとハイカラだし、雑誌の編輯部でも文句なしにこちらを選んだ。三色よりは十二色の方がうまく絵が描けるにきまっているから、私もそれに賛成した。好評ならばもう一年連載を延して、「二十四色のクレヨン」にしてもいいなどとも言ってくれる。連載を始めて暫くしてから芥川比呂志に会ったら、その本の装幀は、昔のクレヨンの箱を大きくしたような形にして、中を引出すと十二色のクレヨンが表紙に印刷してあるなんてのはどうだね、と言ってくれた。それは面白いと忽ち気に入って、その奇抜な装幀が早くも眼に浮ぶようだった。  しかるに連載の五回目を書く段になって、たまたま隣の家が違反建築を建て始めて原稿どころではなくなった。締切が迫っても何の|たね《ヽヽ》も思い浮ばないから当面の事件を書くことになる。その翌月になっても事件はいよいよ紛糾するばかりなので、原稿の方も随筆と紛争との二本立になる。せっかくすっきりと綺麗な色に仕上げるつもりだったのにすっかり調子が狂ってしまった。  それやこれやのうちに連載が終ったものの、さて本にするに当ってどうも気が進まない。違反建築の話も、雑誌に載せているうちは当方の周章狼狽ぶりが滑稽を伴っているから傍目に面白くはあったろうが、さて単行本ともなればどうだろうか。それに隣家も或る程度は折れたことだし、更に蒸し返すのも気の毒なようだし、役所の方はどうせ馬の耳に念仏である。また世の中は次第に公害ばやりとなって、道路問題、日照権、ゴミ処理など相継ぎ、建蔽率違反などは吹けば飛ぶように軽くなった。(軽くなったからどうでもいいというものでは毛頭ないが。)何よりも事の結果として、政治むきに関係のあることは一切煩わしくてならなくなった。所詮私はいざこざは嫌いである。  そこで「十二色のクレヨン」の切抜をもてあました。少部数だけ私家版でもつくろうかと考え、識合の小さな本屋さんに相談したこともあるが、その場合には本づくりを自分一人でやらなければならないから面倒くさい。もう少し大きな出版社だと、私家版の他に普及版も出してくれということになって、それも感心しない。それで何となく抽出の隅に放り込んだまま、いつしか忘れてしまった。  今度随筆集を出そうと思ってまたまた抽出から引張り出してみた。全体のうち違反建築の事件に関係のある部分はみんな取ってしまい、残りの純粋な随筆の部分だけを生かすことにすればどうかと考えた。従って題名も「十二色のクレヨン」(抄)ということになる。しかし本来この連載は、のんびりした随筆ばかり並ぶ筈のところ、actual な事件のため次第に作者が息を切らすようになり、とどのつまり作者が舞台に飛び出して来るところが面白かった筈だから、これだけでは綺麗ごとに過ぎるかもしれない。もしこれらの短い随筆の一つ一つがそれぞれ違った色に塗られているとすれば、数えてみると全部で十四ほどあるから、結局は「十二色のクレヨンおまけ二色」、ということになろうか。 [#地付き](昭和四十九年一月)  [#改ページ] [#小見出し]  美術随想    ロートレックの現代性  一般に省略してロートレックと呼ばれる画家の本当の姓名は、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックで、トゥールーズ伯爵家とロートレック子爵家とを祖先に持つ、由緒ある大貴族の家柄に属している。そのような身分の男が、下町ずまいの画家となって、娼婦や芸人や女優などを絵に描いたというのが、まず面白い。何だか運命の皮肉のような気がする。  しかしこの男は、実際に運命の干渉によって画家となった。子供の時に二度も馬から落ち、そのために脚を折った。その結果、上半身は人なみに成長したが、両脚は大人になっても短いままだった。名門の少年が画家への道を進むことが出来たのは、このような事故のお蔭であったと言うことも出来る。そしてこの二つの要素、加えるにその人柄が、彼をしてまったく対蹠的な世界に自由に出はいりすることを許した。それはモンマルトルの舞踏場や娼家やカフェや寄席などの庶民的な世界である。  ロートレックが仕事をしたのは、前世紀の終り頃の極めて短い期間にすぎない。一八八九年にパリで万国博覧会が開かれ、エッフェル塔が建設された。そして同じ年にモンマルトルに「ムーラン・ルージュ」と呼ばれる舞踏場が店開きして、大いに人気を集めた。そこでは歌姫や踊子が客と戯れ、オーケストラが鳴りひびき、さながら人工の天国のようだった。ロートレックはモンマルトルにアトリエを持ち、「ムーラン・ルージュ」のためにポスターを作製し、やがてこの界隈の人気者になって、独自の芸術を完成した。その行状はさまざまの逸話にいろどられ、その作品もまた大胆で、皮肉で、強烈である。  ロートレックの作品は、ある意味では世紀末の産物である。そこにはデカダンスがあり、遊びがあり、音楽とか詩とかいう他の芸術との交流がある。一種の暗示性、抽象性もないわけではない。しかし後期印象派と二十世紀の新芸術との間に位して、ロートレックは実に孤独な仕事を果したように思われる。彼は楽天的で、友達好きで、上流下流を問わず人々に愛され人々を愛したが、如何なる流派にも属することなく、彼の好むものだけを執拗に描いた。彼の好んだのは人物にかぎり、それもモンマルトルに巣くっていた名もない芸人とか、踊子とか、自転車乗りとか、女優などばかりである。ポスターの中には彼等の名前が書かれているから、当時のスターであったラ・グーリューや、ジァヌ・アヴリルや、メイ・ミルトンや、イヴェット・ギルベールの名前を不朽に伝えることになるが、それはポスターというものの性格から自然に生じたことで、彼女たちがスターだったからモデルにしたわけではない。その意味では無名の娼婦たちほど、彼に打ってつけのモデルはなかっただろう。  ロートレックは決して専門的なモデルを使わなかったし、またモデルが美人であることを要求しなかった。彼は「現代性」を描こうとした。コンスタンタン・ギースを「現代生活の画家」として論じたボードレールが、もしも世紀末のパリに生きていたとしたなら、ロートレックをも同じ名前で呼んだに違いない。この「現代性」とは、流行が歴史的なものの中に含まれている詩的な部分を露《あらわ》にすることである。言い換えれば、移り行くものの中から永遠的なものを抽き出すことである。  ロートレックの作品は、主としてデッサンとポスターと油絵の三種から成る。そのデッサンは自由奔放を極め、同じような題材の故にドガのそれに較べられる。しかしロートレックの線はドガよりも鋭く、強く、誇張的で、しばしば戯画化されてカリカチュアの如くになる。そのような線に囲まれて、彼の用いる色彩は(ポスターの場合には特に顕著だが)平面的な一つの塊りとしての色彩である。そこには当時パリの画家たちを風靡した日本の浮世絵の影響も見られるだろう。構図は常に大胆かつ奇抜で、重要な部分以外は切り取られ、一種の装飾的な効果を狙うところがある。明暗はなく、平べったい。従ってポスターという新しい表現において、ロートレックが水を得た魚のように生き生きしているのは当然のことだ。加えるに彼の眼は、必ずしも冷たいというのではないが、およそ情熱とは何の関係もない傍観者の皮肉な視線を持ち、それが現実を骨の髄まで貫く。その観察が周到であり、その表現が徹底しているために、そこに現実きわまって幻想が生じるといった面も出て来る。ロートレックの十年間の仕事は、そうした進化の上に立っている。この愛想のいい愉快な男は、その実は決して人に洩らすことのない孤独を、内部に噛みしめていた筈である。  アルコール中毒になり、精神病院に入れられ、一八九九年に退院した後にえがいた小さな油絵の幾つかには、それまでは隠されていたロートレックの心の中の痛みが、はっきりと看て取られよう。貴族の家柄から離れ、不具であることの劣等感を陽気な性質で紛らわせ、モンマルトルの住民たちの間に住んでだれからも信頼される友達として遇せられていながら、この画家は常に人間的なものを、延いてはまた運命的なものを、その作品の中で追い続けて来たのである。  晩年の彼の油絵は、彼が決して時代と環境との画家ではなく、常に「現代性」を持った画家であることを、証明しているような気がする。彼は一九〇一年、つまり今世紀の初めの年に、三十六歳で死んだが、このような夭折した画家にも、やはり晩年と呼ぶにふさわしい数年があり、それにふさわしい作品があるものだと感心する。そしてボードレールの「現代生活の画家」の結び、「彼は人生という酒の苦さを、その酒の刺戟的な味わいを、彼のデッサンの中に凝縮することが出来た」という言葉は、やはりそのままロートレックにも当てはまるように思うのである。 [#地付き](昭和四十四年一月)     ドラクロワと文学  この頃は文学作品の中に挿絵を入れることはごく当り前のことになったから、どんな高名な画家でも格別そのことを恥とは思わないだろう。挿絵は決して原典に隷属するわけではなく、それを補足し充足することによって並び立つ筈のものである。しかしもしも原典が芸術価値の高い作品であった場合には、挿絵は徒らにその周辺をうろうろして、なくもがなの感じを与えないとは限らない。画家の方にそれだけの、謙虚であると同時に不敵なまでの、自信が必要であろう。  ドラクロワが老ゲーテの「ファウスト第一部」に試みた挿絵は(挿絵といっても、もとは水彩画またはデッサンで、それをシャルル・モットが石版画に刷った)、一八二五年、ドラクロワが二十七歳でロンドンに渡り、シェークスピアやゲーテの芝居を見たり、バイロンやスコットの作品を読んだりした経験の産物である。彼はそこでイギリスとドイツのロマン主義の洗礼を受けてフランスに帰った。既に二十四歳の時に「ダンテの艀《はしけ》」、二十六歳の時に「キオス島の虐殺」を描いていたドラクロワは、ロンドン土産として、決定的な傑作とも言うべき「サルダナパールの死」を制作した。それは一八二七年のことだが、「ファウスト」の挿絵もそれと同年である。そしてこの挿絵は、「私だってこんなに完全にこの場面を想像することは出来なかった」と、老ゲーテをして言わしめたような幻想場面を含んでいる。ドラクロワが原典の前で萎縮したようなところは微塵もない。  私は何もこの挿絵の例だけで、ドラクロワが彼の絵画の中に文学的主題を持ち込むに当って、少しも物怖じしなかったと言いたいのではない。しかし少くとも文学は画家である彼のライヴァルではなかった。彼の作品は宗教画、風俗画、肖像画などのあらゆる領域にわたり、直観と記憶と想像力との限りを尽したものだが、文学に材を仰いだ作品にはドラクロワのなみなみならぬ教養が看て取られる。ダンテ、アリオスト、タッソー、シェークスピア、バイロン、スコットなどの文学作品が、彼の絵画的情熱を駆り立てた。ロンドンで見た芝居、キーンとかテリイとかの名優が演じたハムレットやメフィストが、彼を刺戟したこともあっただろうが、一枚のタブローは謂わば原作の精神をドラクロワ流の想像力で置き換えたもので、一つの世界に対する別の世界なのである。そのことは「ファウスト」の挿絵のような場合でも例外ではない。  従ってドラクロワの絵画は本質的に文学的である。ということはその主題の把握が詩人的直観によってなされているということだ。しかしその表現の技術があくまで画家としてのメチエで処理されていることは、更に一層重要である。文学的というのは主題の選定の問題なので、画面の与える印象が如何に原典の精神に近くても、問題はあくまでも絵画的効果なのである。しばしば絵画的効果が、詩的な効果とあやまって信ぜられやすい。それは我々がタブローの上に発見したものを我々の感覚によって翻訳し、そこに原典の精神を嗅ぎつけることで余分のものをタブローに与えたことの結果である。ドラクロワの絵は、絵そのものとして成立している。もしもそれが文学作品を題材としていて、しかも我々がその原典を知らない場合にも、その絵はやはり詩的な感動を発揮するだろう。それはボードレールの言葉を借りれば「画家の頭脳の中であらかじめ確立されていた、色彩と主題との間のハーモニイ」に由来するからである。  例えば一八三九年の「墓地のハムレットとホレイショ」を見よう。ハムレットにはさまざまの解釈が時代と共に下されて来た。ドラクロワのそれはまさにフランス・ロマン主義に立ち、この貴公子はミュッセの描く詩人のように繊細な神経を持っている。しかし私たちを感動させるものは、ハムレットの内心の悩みではない。墓掘り人足の差し出した頭骸骨をめぐっての全体の構図、背景の不安に充ちた嵐の空、そしてホレイショの赤い帽子や、人足たちの白い下着と赤いチョッキや、ハムレットのガウンの上に置かれた白い手など、そうした鮮かな細部を全体的な暗さのうちに統一している音楽的としか言いようのない色彩の調和である。ドラクロワがこういう場面を描いたのは、それが有名な場面であることによってその恩恵を蒙るといったものでは毛頭ない。彼は一枚のタブローによって、シェークスピアを上演するのである。そして私たちは、そこにシェークスピアを見るのではなく、ドラクロワを見るのである。  ドラクロワはその生前に於て、決して現在のような名声を獲得していたわけではなかった。彼の最もよき理解者だったボードレールは(彼もまた同時代の名声からは遠かったが)ドラクロワの葬儀に駆けつけた会葬者の中に、画家よりも文学者の方がはるかに多かったと報告している。それほど画家たちはドラクロワを理解しなかった。しかしまたボードレールは別のところで、ヴィクトル・ユゴーでさえもドラクロワを認めようとせず、ドラクロワの女たちを蛙と呼ぶことさえあったと嘆いている。しかし一般に言って、ロマン主義という新しい運動は文学者の陣営で最も成功したのだから、画家よりも文学者の方が、直観的にドラクロワの価値を見抜いたということは言えるだろう。ただボードレールほど理論的に見抜いた詩人はほかにいなかった。 「眼に見えるすべての世界は、想像力によって、それぞれの位置と相対的価値とを与えられた映像と記号との倉庫であり、想像力が消化し、変形させなければならない一種の飼葉《かいば》である。人間の魂の持つあらゆる能力は、それらの能力をすべて同時に徴用する想像力に、服従しなければならない。」  このような想像力を持つ天才の形を、ボードレールはドラクロワの上に見た。しかもボードレールは、彼の崇拝する画家に同情するあまり、未来に於てドラクロワが惹き起すであろう魅惑と称讃とに立ち会うために、死者となっても甦りたいとまで言った。確かに死後百年を過ぎた今日に於て、ドラクロワは当然のように魅惑と称讃とを惹き起している。しかし彼が生前どのように不遇だったとしても、ボードレールという一人の詩人の捧げた尊敬と理解とは、その不遇を償うのに充分に値しただろうと思う。 [#地付き](昭和四十四年四月)     ゴーギャン展二題      一、ゴーギャン紹介  ポール・ゴーギャンは二十世紀絵画の道を切り拓いた偉大な画家の一人に違いないが、まだ我が国で総合的な展覧会が開かれたことがない。従って名前の割には、その作品が実際に見られることの少い画家のように思われる。それは、例えばゴッホと較べて、ゴーギャンの作品が世界中に散らばっていて、容易に一堂に集めにくいという理由もあるだろう。ゴーギャンは太平洋の小さな島で死んだから、晩年の作品は四散した。フランス以外の国、ソ連やアメリカやデンマークなどにも多く、これはと思われるような小さな美術館でも、ゴーギャンの一点や二点は持っている。つまり世界中を歩かなければ、ゴーギャンの全作品は見られないということになる。  しかしゴーギャンの作品数は特に多い方ではない。ウィルデンステインとコニヤとの作ったカタログによれば、油絵は六三八点である。もっとも彼が画家として独立するために仲買店の店員をやめたのは一八八三年、三十五歳の時で、死んだのは一九〇三年、五十五歳の時だから、画家として自立してからの二十年間の仕事の量は驚くべきものがあるとも言える。そして彼の主要な仕事は、パリに於けるもの、ブルターニュ地方に於けるもの、二度にわたるタヒチ島に於けるもの、晩年のヒヴァ・オア島に於けるもの、というふうに区別されるだろう。確かにゴーギャンはタヒチ島と結びつくことで有名になったが、技術的にはブルターニュ時代の作品にその特徴は既に充分に看て取られる。それはモーリス・ドニが理論化したように、絵画を「一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平らかな表面」と見ることである。画面の中に描き出された材料や主題が絵をつくるのではなく、画面が画面として充足することが重要なのである。如何なる他の手段でも表現できないもの、ただタブローの上に色彩を置くことによってしか自己の生命を燃焼できないもの、それがゴーギャンのごく単純な願いだったように思われる。  ゴーギャンの生涯は波瀾に富んでいて、一種の伝説と化している。そのために作品の方がともすればエクゾチックに、或いはロマンチックに、見られやすい。しかし結婚生活十年を経た善良な良人であり、三人の子の父親であり、安定した地位と収入とを持つ三十五歳の男が、あらゆる反対を押し切って我武者らに専門画家の道に飛び込んだのには、単に好きだとか自信があるとかいうのとは違った、抜き差しのならない理由があった筈である。それは文明人として育てられたこの男の内面に隠されていた、殆ど野蛮人的な爆発的な感情が(その時はまだはっきりと分っていなかったものの)絵画という手段を借りる以外に彼の全人格を表現することは出来ないという確信に基づいて、彼を促したものであろう。既に三十五年を空費してしまった、もう一日も待ってはいられない、——そういう切羽つまったものが、彼を駆り立てて、成功するかどうかも分らない道を選ばせた。  五年後の四十歳の時に、彼はブルターニュ地方のポン=タヴェンで、早くも若い画家たちを指導する立場にいた。彼は彼の方法、つまり自然から芸術を抽き出すという方法論と、秩序化された色彩という手段とを発見していた。見たままの自然の色ではない主観的な色、それも画面のハーモニイをつくり出すための相対的な色彩関係が追求され、そこに一種のアラベスク模様を伴う装飾的効果が現れた。それはゴーギャンが内部に持っていた何ものかが、それにふさわしい風景なり人物なり静物なりを借りて来て、タブローの上につくり出したものと言うことが出来る。ところがこの内部にある何ものかが、充分にそれに照応する対象を外界に見出し得ないと考えるに至って、ゴーギャンは内的要求にふさわしい風土を探し求め、ためしにタヒチに旅行するという夢を持ち始めた。そして文明以外のところに、生命力の源泉を見つけ出すという試みは、運よくもそこに、自己の内部にお誂えむきの環境、文明の手の及ばない新しい野蛮を発見して、その才能を完全に発揮することが出来た。従ってゴーギャンが南洋の島々で制作した作品を、単なるエクゾチスムと見ることは出来ないだろう。それは憧憬とか願望とか脱出とかいうものではない。それはまさに生活そのもの、どうしても芸術家に生れてしまって、それ以外の道を選べなかった男の生活そのものを示した絵画なのである。  ゴーギャンは「ノアノア」というタヒチ紀行や、内心を吐露した多くの手紙でも知られるように、多分に文学的なところがある。その作品も文学的と言えないことはない。しかし彼は文学的な題材によって絵を描いたのではなく、彼の内的要求が詩的情緒を含んでいたためにおのずから文学的になったので、作品はあくまでも絵画そのものとして純粋に処理されている。ただそこに暗示的な要素を多く含むから、見る人に一種の幻想を与え、タブローの枠の外へまで漂って来る世界を感ぜしめるのである。ゴーギャンが妻子と別れて南海の孤島でどのような悲惨な生活を送ったかは、作品を見ただけでは分らないし、また作品にそのような魂の苦悩をまで見るべきではあるまい。その点はゴッホの絵の与える感動とはまったく違っている。ゴーギャンの絵は燃える太陽に照されて、常に明るく輝き、植物の噎せるような香りに充ちている。それは絵具そのものが輝き、匂うからである。実際にこの画家がその晩年に如何に不遇であり、或る時は自殺を試みて果さず、肉親からの便りもなければ母国へ帰る希望も失われて、殆ど枯木の倒れるように孤独に死んで行ったとしても、作品はまったく別個に、色彩の統一ある秩序を保った表面として、成立している。ゴーギャンがその人生と引き換えに獲得したものは、そのタブローの中に閉じこめた神秘、それも絵画という表現でしか表現できない神秘である。そのようにしてゴーギャンという嘗ての日曜画家は、絵画をそれまでのリアリズムから解放し、魂の表現に変えたと言うことが出来る。彼は晩年に弟子のダニエル・ド・モンフレーに次のように手紙で言っている。「たとえ私の作品が後世に残らないとしても、多くのアカデミックな欠点から絵画を解放した一人の画家という記憶は、いつまでも残るだろう」と。確かにその記憶は残った。そして作品もまた残っている。      二、世界の謎  私はポール・ゴーギャンの本物の油絵を、戦争中に倉敷の大原美術館で初めて見た。その夏、私は神戸に滞在していて、或る暑い日に、汽車に乗って日帰りでゴーギャンを見に出掛けた。「テ・ナーヴェ・ナーヴェ・フェヌーア」訳して「かぐわしい大地」というその一点の油絵は、私に長く忘られぬ印象を残した。時と処とを得れば、芸術作品はこちらの魂を震憾することがある。ゴーギャンとの出会いは、私にとってそういう場合の一つだった。 「かぐわしい大地」は私に感動と疑問とを同時に投げ掛けた。当時の私が「世界の謎」と名づけたものがそこにあった。画面に画かれたものは褐色の肌をした裸体のタヒチの女と、それを取り巻くきらびやかな楽園のパノラマである。女はちっとも綺麗ではなく、寧ろみにくい。しかし彼女が不可解な視線で見つめている風景は、およそ現実離れした色彩に富み、マンゴの大木、人の眼をした花々、黒い大とかげ、赤い羽の鳥、そして女の足が踏みしめている大地は、まさに「かぐわしい」としか呼びようがないほどの装飾的な模様に彩られている。それは、まるで世界が一つの調和を目指して存在しているかのようだ。しかし世界は決してこのように美しくはない、と私はその時考えた。これはゴーギャンが幻想として見た世界にすぎない。だから現実に彼がタヒチで見出した土人の女は、こういうみにくい顔とがっしりした体格とを持っているのだ。そしてこのみにくさと風景との対立が、しかし全体として一つの調和の中に溶け合っている点に、ゴーギャンにとっての「世界の謎」があり、また技術的にゴーギャンの勝利があるのだ、と。  その後私はゴーギャンの絵の複製を数多く見ることによって、タヒチの女たちが年代につれて次第に美しくなって行くことに気がついた。「かぐわしい大地」は一八九二年、画家がタヒチに渡って間もない頃の作品である。ゴーギャンは最初の印象に従って、謂わば写生的に土人の女を画いた。しかし風景に対しては、彼は写生的ではなかった。たとえ写生しても、それは彼の内部のリズムによって変形され、一種の幻想と化してしまった。幻想の結果として、そこには一つの調和を目指している世界というものが、常に厳として存在する。  ゴーギャンが中年から画家を志したことはあまりに有名である。それは単なる気紛れとか芸術家としての目覚めとかいうだけでは、片づけられない問題のように思われる。彼の内部には早くから「世界の謎」があった。現に生きているこの現実によっては、決して満足させられないもの。世界が彼にとってどのような意味を持つのか、問い掛けずにはいられないもの。そして絵画以外には表現の手段を持たなかったから、彼は画家となり、やみくもに走り出さなければならなかったのだ。初めてブルターニュに出掛ける前に、彼は友人のモリスに、出掛ける動機を「悲しみ」だと答えている。そして晩年のゴーギャンを支えていた動機は「怒り」である。彼は彼自身の世界を所有するために、ブルターニュに、ラ・マルチニックに、タヒチに、更にヒヴァ・オアに、つまり、より野蛮で未開の島々へと、追われるように走った。しかし本当は何処でもよかったのだ。世界は彼の内部にあり、その内部の謎を解くためには、新しい風土は幻想のための材料というにすぎなかった。彼の世界を表現するために現実と幻想とが一致する場所、それがゴーギャンの求めていた南海のエデンである。  ゴーギャンの絵画には「悲しみ」や「怒り」が直接表現されているようなものは、自画像以外には殆どない。それは画家の側にあるので、作品の上には見出せない。しかしゴーギャンの作品は、すべて彼の内部にあるものの表現である。ゴーギャンという株式仲買人は、何となく絵が好きで画家になったのではない。表現せずにはいられないものが、生れた時から彼の内部に眠っていたのだ。しかもそれは、三十五歳になって漸く彼が発見したように、絵画によってしか外に表すことの出来ない微妙なものである。そのためには技術が、それも他の画家の亜流ではない独自の技術が、要求される。しかしただの技術家というのではすまされないだけの豊富な人間的なもの、ややもすれば彼の足をうしろに引張ろうとするやさしい感情、涙もろさ、怒り、虚栄心、エゴイズム、そうした燃えたぎる渾沌としたものを内部に隠し持って、彼は生き、戦い、抵抗したのである。欠点の多い人間だったかもしれないが、自らの欠点を知らなかったわけではない。しかしそれを知っても、彼は与えられた課題を解くために前進しなければならなかった。課題はつまり「世界の謎」である。生れながらにして我々が持ち、しかも年と共に忘れてしまうような何ものかである。それを忘れても生きることは出来る。しかし例えばゴーギャンの如何にも美しい画面を見詰めている時に、その謎は言いようのないほどの重さを持って、我々の上に落ちて来るのである。何のために世界はあるのか。何のために人間は生きているのか、と。  初めてポール・ゴーギャンの肉筆の油絵を見た時から、私は今までに日本で見られる限りの彼の絵を美術館や展覧会で見た。実物を見ることは、複製で見るのとはまるで違った印象を与えるものである。五年ほど前に、パリのシャルパンチェ画廊でゴーギャン回顧展が催された時に、ぜひ見物に行けと友人たちにすすめられたが、出無精な私は遂に腰を上げなかった。今回、日本で初めてのゴーギャン展が開かれるというのは、私にとってはもっけの幸いである。回顧展ほどの点数は揃わないだろうが、ゴーギャンの作品はどの一点といえども彼の世界の表白であり、芸術の根源的な問い掛けを含んでいる筈である。また、この機会に初めてゴーギャンに接する人たちにとっても、絵画という表現手段が、人間の魂とどのように関り合うかを知るための、またとない機会になるだろうと思う。 [#地付き](昭和四十四年四月、八月)     ムンク礼讃  エドワルド・ムンクは私の愛する画家である。ほとんど偏愛すると言ってもよい。一九六一年に国立西洋美術館がムンク版画展を催した時に、私は茫然となってその魅力に打たれた。その頃は西洋美術館はまだ全カタログを発行する習慣がなかったので、特に頼んで百点あまりの全出品作品の写真を分けてもらい、それを繰り返しながめて愉しんだ。ムンクの版画のどの一枚といえども、病める生の本質が描き出されていないものはない。恐れる男と裏切る女とが登場し、愛はいつも絶望的な結末に達する。従って孤独と憂愁との翳は、暗い北欧の海岸を背景にして、すべての人物の上に一様に投げ掛けられている。それがイプセンやマラルメなどの肖像画でも、彼等の最も暗い部分があばき出される。ましてや女の顔になれば、恐らくムンクの女ほど理解不能の心の奥底の闇を、その瞳に秘めている者はないだろう。ムンクの構図が常に悲劇的なのは、彼が表現主義に属するからでも、また世紀末の時代に生きたからでもなく、彼が人生をそのように受け取ったからである。この病的なまでに繊細な神経は、また版画の技術の上にも独特の表現となって滲み出ている。  私はそれからムンクに凝り、画集などもいろいろ取り寄せたが、何分にもノルウェー語を読めなくては話にならない。そのうえムンクを論じたくても、最大の難関は、油絵の実物を見ていない点だった。ところが今回鎌倉の近代美術館が大がかりなムンク展を開き、そこには前回の西洋美術館の時よりもさらにたくさんの版画に加えて、油絵も四十点ほど舶来するということである。版画と油絵とを同時に見られれば、ムンクの全貌はおのずから明かになる筈である。あのような内部の謎に充ちた作風が、どのような源泉から発し、どのような進化を遂げたのか、恐らく今度の展覧会は充分な材料を提供してくれるだろう。それは決して私一人の期待というものではないだろう。 [#地付き](昭和四十五年七月)     硝子の窓  戦争中のことだったが、東京は大森のあたりに珍本を各種取り揃えている古本屋があると、誰に教わったのか、神戸へ行った折に竹中郁さんに聞いたような気もするが、とにかくそれを覚えていて、一度だけわざわざ訪ねて行ったことがある。その店を見つけ出すのにだいぶ苦労をした筈で、書棚を見ながら汗ばかり拭いていたようだったが、その店の名前も場所も、またその時どんな本を買ったのかも、綺麗さっぱり忘れてしまった。ただ帰りしなにその古本屋の主人が、そんなにお客さんが川上澄生をお好きなら、版画を一枚差し上げましょう、と言って、初対面の青年に薄い雁皮紙に墨で摺った一枚物の版画をただでくれた。題してお洒落鴉という川上さんにしては変った題材の作品で、私が欣喜雀躍したのは言うまでもない。思えばその時川上さんの本を買ったからこそ版画を貰ったのだろうが、おまけの方で嬉しがって他のことはみんな忘れてしまった。これが病みつきの機縁である。  川上澄生を好きな人は、まず最初に川上さんの装幀した他人の本、例えば萩原朔太郎の「猫町」とか「郷愁の詩人与謝蕪村」とかでその名を認識し、もしくは市販本の自著、例えば版画荘の「ゑげれすいろは人物」とか「明治少年回顧」とかでその雰囲気に魅了されて、それから小部数限定の木版画による絵本をあれこれと探しまわり、その次にいよいよ一枚物の木版画ということになるのだろうか。これはつまり私の経験した順序なのだが、私の場合はその中間に、戦後まもなく出した私の初めての詩集に川上さんの装幀装画をお願いしたという事件が挟まる。但しこの話は既に書いたからここには触れない。  私は川上澄生を尊敬することでは人後に落ちないつもりだが、遺憾ながら蒐集家と言うわけにはいかない。その時の風まかせ、あって嬉しく無ければ諦める。というのも蒐集の神様が、めったに深入りするなと私に警告しているからである。これほどの魅力、いったん溺れたら身の破滅と言ったものであろう。  だから私は遠目に睨んでいるだけだが、しかしお洒落鴉一枚を手に入れた時の気持を思い出してみても、蒐集家の心理は充分に想像がつく。その筋道は右に書いたように、限定版の絵本から一枚物の版画へ行き、その版画の次は肉筆の作品、川上さんの場合は硝子絵に手を出す、ということになろう。硝子絵が蒐集の最終段階であることは論を俟たない。何しろどれも一点限りで、どうしても欲しいとなれば身の破滅は見えすいている。そこで蒐集家のために、せめても硝子絵の複製画集を必要とすることになって来る。  版画と肉筆画とはもともと発想が違うし、両者を兼ねた画家でも肉筆画から版画に移った人の方が多い。川上さんはその反対という珍しいケースである。一体川上澄生のような独自の世界を持つ版画家が肉筆画を物する時に、油絵でもなく日本画でもなく、この硝子絵という当今さっぱりはやらないジャンルを選んだというのが面白い。私は硝子絵の沿革や技術についてはまったくの無知だが、川上さん固有のノスタルジックな風物をえがくために、これほどふさわしい材質はないように思う。不透明で平板な泥絵具の感じが、異邦的、文明開化的、明治的といった情緒を掻き立てるようで、川上さんらしい稚拙な味わいを出すのに打ってつけである。  川上澄生は独特の芸術家で他の人と比較しては失礼だが、私はつい税関吏と渾名されていたルソーのことを思い出す。ルソーは日曜画家の元祖で、その素人っぽい素朴な作風は、真の芸術は天衣無縫なものだということを示していた。川上さんのよさもまた、自分の世界を忠実に守って決して右顧左眄しないその頑固さにあると言えるだろう。川上さんの硝子絵を編んだこの本を見ていると、長い間かかって育てられた川上さんの夢が、これらの小さな硝子の窓から次々に現れて来るような気がする。 [#地付き](昭和四十六年八月)  [#改ページ] [#小見出し]  音楽随想    レコード批評というもの  私はささやかなステレオで暇な時にレコードを聞く程度の、ごく普通の音楽愛好家の一人である。一応の音色が出さえすればどんな出来合いのステレオでもいい方だから、各部分の組み合せに凝るようなオーディオマニアでもないし、各種のレコードを蒐集して聴き較べるほどの専門的知識も持ち合せていない。とにかく偉そうなことを言う資格はまるでない。従ってこれは素人のごく素朴な疑問と思ってもらいたい。  私は好き嫌いが激しいから、好きな作曲家の好きな曲にしか興味がない。例えばベートーヴェンのレコードは殆ど持っていない。では誰のどの曲が好きかというようなことは、ここには関係がないから述べない。趣味が偏していて、万べんなく集めるようなことは嫌いである。これは書物についても同じで、だいいち借家住いの身だから収容能力に乏しいし、読みもしない本や聞きもしないレコードを持っていても、所詮は無駄というものであろう。もっとも、それでは持っているレコードはしょっちゅう聞いているのかと言われれば、その点は怪しい。  その僅かばかりのレコードの中でシベリウスは殆ど揃っている。というのは私は昔からこの作曲家が好きで、シベリウスは十九世紀ロマン派の生き残りだなどという意見には与《くみ》しない。いずれエッセイでも書くと宣伝だけはしているが、いつのことになるやら。  私は揃っていると書いたが、これはシベリウスの作品のレコードは、作品別に揃っているという意味で、どのレコードもあるという意味ではない。一つの作品の代表的なレコードが一枚あれば、それで宜しい。とは言うものの、一つの作品に幾種類もの演奏があるとすれば、つい手を出すのは贔屓の心意気である。一番ありそうなのを調べてみたら、交響曲二番が六枚もあった。カラヤンとフィルハーモニア、オーマンディとフィラデルフィア、トスカニーニとNBC、マゼールとウィーン、セルとコンセルトヘボオ、渡辺暁雄と日本フィル。この曲のレコードは他にもまだ色々ある筈で、マルク・ヴィニャールという評論家によれば、モントウがいいそうである。さてこういうふうに同じ曲の演奏が沢山ある場合、どれがいいかという点に私の素人っぽい疑問が生じるのである。  批評というのはあらゆる分野を通じての流行的現象と言えるから、勿論レコード専門の批評家というものがあり、毎月おびただしく現れる新譜について月旦を試みてくれる。こと新譜に限らず、一つの曲に対してAのレコードは重厚な演奏だがBの方は繊細微妙、Cの方は優美華麗だなどと仰せられる。これが録音技術に関して、例えばステレオ効果が弱いとか高音がひずむとかいうのなら分る。しかし多くの批評家は作曲家の精神を論じ、演奏家の腕前がその精神を具現しているか否かを、主として抽象的な語彙を用いて論評する。そして新譜の場合には、殆ど常に新しく出た盤にはそれだけの特色があって、他のを持っていても今度のを買わなければ、その曲の精髄が掴めないような気持にさせられる。もっとも逆手を言って、これも駄目あれも駄目、一番いいのは大昔のSP盤だというような批評もある。  一体どういうところに判断の基準があるのだろうか。レコード批評家はバロックから現代までの(勿論、そこに多少の専門的区別はあるだろうが)すべての作曲家の精神を理解し、その最上の演奏方式というものをすぐさま頭に思い浮べられるのだろうか。私は外国文学の翻訳をつい聯想するが、もしも二種類の翻訳を比較するとなれば、原文に当らずに甲乙を論じるのはおかしい。レコードの場合には、原典がそっくり批評家の頭の中にあるものだろうかというのが、私の疑問である。それから、例えばAは生ま演奏を聞いたことがあり、Bはレコードだけという時に、果して同格に扱えるだろうかとも思う。しかしその生ま演奏の時にたまたま厭なことがあったとしたら、レコードを聞く時に逆にマイナスに作用しないとも限るまい。そうなるとレコードの批評は、好み以外の何ものでもないことになろう。  私はシベリウス二番では、マゼールと渡辺暁雄とを聞く。理窟をつけようと思えば、結構もっともらしいことを言えるかもしれないが、つまりは私の好みである。ただ私は、自分の好みを人に押しつけようとは思わない。 [#地付き](昭和四十三年七月)     ワルター頌  音楽に親しんで行く時の進化状態を想い返してみれば、まず初めに好きな曲が生じ、次いでその曲の作曲家に関心を持ち、最後に演奏家の是非を論じるということになるだろう。一人の作曲家に凝ってその作品を集めるのはごく普通だが、演奏家に凝るというのは一段と進歩した鑑賞家の場合である。それもピアノとかヴァイオリンとかフルートとかいう独奏楽器なら、演奏家に親しむこともさして不思議ではない。しかしこれが指揮者となると、甲の指揮者と乙の指揮者とがどういうふうに違い、従ってその腕がどっちが上かというのは、難しい問題である。その上、指揮している交響楽団の実力、或いは特徴ということも大いに作用されよう。  しかるに近頃はレコードの普及につれて、高度の鑑賞家がふえたと見えて、誰の指揮によるどの曲がいいとか悪いとか喧《かしま》しく論じられるようになった。私は音楽については素人《しろうと》の域を出ないから、よほどの下手でない限り誰が棒を振ろうとちっとも構わない。曲の方が大事なのだから、作品が私の好みであり、その演奏が原作の精神に近似値的に近くさえあれば満足する。新解釈なんかは御免である。  近似値的に、と私は書いたが、そこが一番の問題であろう。原作者の精神は原作者にしか分らないし、そうかと言って、原作者が自ら棒を振っているレコードは(こと古典ともなれば)あり得ない。しかし仮にそれがあったとしても、作曲と演奏とはまた別もの、必ずしも原作者の方がすぐれているとは言い切れないだろう。  私がブルーノ・ワルターを好きなのは、まさにこの近似値的に近いという点である。彼はフルトベングラーほど強烈ではない。ミュンシュほど繊細ではない。バーンステインほど力動的ではない。カラヤンほどに派手ではない、……そんな言葉の上の比較をしてみても何にもならないが、マーラーの弟子だったことによってマーラーの、ミュンヘンやベルリンやウィーンに育ったことによってモツァルトやドイツロマン派の、最も良き理解者であることは言を俟たない。ドイツ人でありながらフランスの国籍を持ち、第二次大戦後はアメリカで暮したことでも分るように、彼は世界市民と言うにふさわしい教養の広さを持ち、そのことは音楽というこの万人共通の世界を具現するための、大事な糧《かて》になっていよう。しかも彼がアメリカでコロンビア交響楽団を指揮したものには、ヨーロッパに於ける演奏とはまた別の、一種の望郷の念がうかがわれて、それが彼のモツァルトやブラームスに一種の哀愁を漂わせていると感じるのは、私の僻目《ひがめ》というものであろうか。 [#地付き](昭和四十三年八月)     シベリウスの新盤  暫く前のこと、シベリウスの交響曲全集が二種類、バーンステイン盤とマゼール盤とで出ることになったから、聴き較べて批評してくれという依頼を受けて、言下に断った。批評でなくて感想でもいいと言われたが、まったくの素人がどんな感想を述べれば済むだろうか。考えただけでも頭の痛くなる話で、そんなことは私のように趣味で聴く人間には荷が勝ちすぎている。うんと言えばレコードを貰えそうな気配もしたが、断ったために身銭を切ってバーンステイン盤を購入した。マゼールの方はばらで殆ど持っているので、まだ考慮中である。そこにフィリップスの新盤で、シベリウスの第一番と第七番とを組み合せた一枚が出るから、推薦的文章を書くようにと頼まれた。言下に断る代りに試しに聴いてみてからと生返事をして、実はそれを聴いた結果として、このような雑文を書かされている。この新盤の演奏はドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団、指揮者はカール・フォン・ガラグリーという。とにかく初めてお目にかかるオーケストラと指揮者で、当方には何の先入観もない。貸してもらったレコードのジャケットには、表紙に掲げられた絵の説明がシベリウスの紹介文と共にドイツ語でしるされているが、指揮者やオーケストラには一行も触れてないから、降って湧いたとしか言いようがない。ところが演奏はとなると、これがお世辞抜きで感心した。第七番は、各々のパートの旋律が浮き彫になるような、くっきりした鮮明な音色を聞かせ、このとっつきにくい曲が、確かにシベリウスの登りつめた絶頂であることを、具体的に示してくれる。私はカラヤンの古いモノラル盤でこの曲に親しみ、それからそのステレオ盤、そしてビーチャム、マゼール、渡辺暁雄、今度のバーンステインなどで聴いたが、第七番は無心に聞いて分るという曲ではなく、精神を集注しなければ理解しにくいところがあった。つまりこちらに勉強するという気構えを要求した。ところがこのガラグリーの新盤は、第一番を聴くのとまったく同じい気楽な態度で向っても、少しも難解という印象を受けない。逆に言えば、七番を明るくロマンチックに解釈したということになるのかもしれない。第一番については私はマルコム・サージェントの盤で聞き馴れているが、このガラグリーも遜色がないような気がする。しかし色々と較べてどう違うなどと論じるのは私の柄ではない。  しかし大事なことを一つ。私が聴いたのはフィリップスのオランダからの輸入盤で、とにかく恐るべきほど音量の豊かな、明晰な録音である。これが日本盤にプレスして同じように行くものかどうか、私には全然分らない。しかし第一番と第七番、つまり最初と最後とが一枚にはいっているというのは、シベリウスに入門するためには打ってつけだろうから、私は悦んでこれを推薦する。それと共に、専門家が新人の指揮によるこのレコードをどう見るか、意地の悪い興味がちょっとばかりないわけでもない。 [#地付き](昭和四十四年五月)     恋愛音楽  私は音楽をただ自分のために聴くのだから、従って鑑賞のしかたも我儘であり、好き嫌いも人一倍烈しい。その私がブラームスを好きになったのはこの四五年来のことで、どうも昔はブラームスのよさがよく分らなかったようである。では今ならそのよさを分析できるのかと言われれば、これがまた説明しにくいのである。だいたい音楽なんてものは分析できる筈もないし、本人が気に入っていればそれまで、何もブラームスが好きだからと言って、恥ずかしがることも威張ることもあるまい。  私の好きなブラームスは殆ど室内楽に限られている。それも晩年に近いものほど、つまり渋くて、少し陰鬱で、何かしみじみとした感じを伴うものほど、いくら聴いても聴き飽きることがない。その室内楽の中で、弦楽六重奏曲の二曲は、作品番号が一八と三六なのでも分るように、例外的にごく初期に属しているにも拘らず、私はやはり耳を傾けずにはいられない。実を言うと、ブラームスのこうした若い作品が好きだと公言するのは、少々うしろめたい気がしないでもない。というのは、周知のようにこの二曲はブラームスがアガーテ・フォン・ジーボルトとの恋愛に想を得たもので、六重奏曲を仕上げるためにわざと失恋したのではないかと勘ぐりたくなる程、二曲とも胸の締めつけられるような恋愛感情に充されているからである。  音楽という形式は、文学のように言葉によって表現するものと違って曖昧な要素を含んでいるから、恋愛感情といっても直接に意志表示をしているわけではない。従って恋愛小説があるように恋愛音楽があるとは限らない。どの音楽が恋愛的情緒を持っているかは、その作曲家の伝記を調べて推定するほかはない。しかしブラームスの弦楽六重奏曲は、誰が聴いても、心のうちに秘めた深い情熱と、それを抑えようとする自制心との闘いを、直ちに納得するような音楽であろう。勿論ブラームスの伝記によって、我々はこの若い作曲家と大学教授令嬢との恋愛の経緯を知っている。(但し、なぜブラームスがこの恋愛を成就させる方向に進まなかったのか、その真の理由は憶測の域を出ないが。)しかしこの二曲が恋愛音楽として比類のないものであるのは、我々が作曲家の伝記を知っているからではなく、要するに聴けば分るからである。第一番という恋愛の直後に於ける作品の方が、より生ま生ましい魂の律動を伝え、数年後の第二番は傷痕を癒そうとして、ひたすら魂の平安を望んでいるようなところがある。しかし第二番にあるこの暗さは、晩年の弦楽五重奏曲やクラリネット五重奏曲と一脈の通ずるものを持っている。それは若くして自分の運命を予見した者の、魂の呻きとも言えるだろう。  私は初めは勿論第一番の方に心惹かれていた。これこそロマンチックそのものだという魅力があって、ベルリン・フィルハーモニー八重奏団の演奏やウィーン・コンツェルトハウス四重奏団にシュタングラーとワイスのはいった演奏で、繰返し聴いた。そのうちに第二番の方に少しずつ心を動かし始めた。その理由は自分でもよく分らない。恐らくはブラームスがアガーテへの恋愛を諦めた気持が、私なりに理解できると思ったからではないだろうか。第二番の方がブラームスの心境が落ちついて、表現が明るいという批評があるが、私は必ずしもそうは思わない。明るいブラームスは私には真平である。ここには気持を建て直して、自分はもう傷痕を癒した、もう昔の恋愛から立ち直った、大事なのは恋愛ではなくて音楽なのだ、と必死になって訴えているブラームスの声が聞えるようである。彼は技巧に熱中して、弦楽六重奏曲という新しい形式に成功した。しかしそれ以後、二度と同じ形式を使おうとしなかったのには、何かしらの意味があるのかもしれない。私はブラームスの傷痕がそんなに簡単に癒されたとは思わないのである。  第二番を、新しくベルリン・フィルハーモニー八重奏団の演奏で聴いた。輪廓のくっきりした、テンポの早い明快な演奏で、ウィーン・コンツェルトハウスに較べれば、纏綿たる情緒に頼らないだけに感傷的ではない。そしてブラームスのロマンチシズムは必ずしも感傷的といったものではない筈だから、私はこの演奏は、ブラームスという人間の心の奥深いところにあるものを抉り出して、晩年の渋さを先取りしたものだろうと思う。 [#地付き](昭和四十四年八月)     ベートーヴェン寸感  私は音楽について無知であることを公言して憚らないが、我と我が恥を公けにすることで、世の専門家に楯をつくという賤しい気持を、多少とも伴っていることは間違いないだろう。つまり素人という立場を利用して勝手気儘な口を利き、それが専門家の意見と違っていれば、違っていることそれ自体に価値があるような顔をする。これが自分の専門の文学の畑ならば、私は大いに謙虚なのだが、畑が違えば何を言っても多少は許されるという甘い気持が働くのかもしれない。  例えばベートーヴェン。私はこの頃、ベートーヴェンは嫌いだと公言し、事実殆どベートーヴェンを聴くことはない。演奏会のプログラムにベートーヴェンの名があれば敬遠する、そのレコードを買うことは決してない。従って私はベートーヴェンに関して、言うべきことは殆どないのである。  しかし昔はそうでなかった。そこのところを説明しなければ、私がベートーヴェンのような真の芸術家を、ただ毛嫌いしていると思われる恐れがある。決してそうではない。世の中の音楽好きと同じく、私もまた、ベートーヴェンにうつつを抜かしていた時代があり、そのことを悔む気持は少しもない。西洋音楽が私の中に固定したのは、中学生のころ熱心に聞いたベートーヴェンの交響曲やピアノ・ソナタのお蔭だと、今日言うことが出来る。例えば私が二十代に初めて書き始めた長篇小説「風土」は、その重要な主題として「月光」ソナタを持っていて、当時私がこのピアノ・ソナタに夢中になっていなければ、果して小説を書き出したかどうかも疑わしい位である。「月光」のみでなく、私はベートーヴェンのあらゆるピアノ・ソナタに熱中し、またヴァイオリン・ソナタやチェロ・ソナタにも熱中した。  私は戦後長らく療養所で病を養っていたから、その間、私の日常の慰めとしては、レシイヴァーで聞くラジオ放送しかなかった。私は毎日、朝から夜まで、ラジオであらゆるレコードの放送を聞き、その間に私の好みも少しずつ変化したようである。私は療養所に足掛け八年ほどいて、その間しばしば死にそうな破目に陥り、そのために芸術というものが私に与える意味を、私なりに追求した。そこのところを、こういう簡単な文章に書くことは難しい。私は結論として二種類の音楽を考え、その何れもが、私にとって意味がある、或いは、私をして生かしめることが出来る、と考えた。  一つはモツァルトの音楽、及びその亜流。  一つはバッハの音楽、及びその亜流。  しかしこれではあまりに大ざっぱにすぎて、私の意のあるところを分ってもらえないだろう。モツァルトによって代表されるものは、時間の中で滅びて行くことに甘んじる一つの甘美な流れ、但しその流れはあくまでも美しく、恍惚とした旋律に充ち、その旋律の中でならたとえ死んでもいとわないだけの気持を人に起させなければならない。(しかしモツァルト以後に、同じ気持を起させる音楽はそんなに多くはない。)もう一つのバッハ、それは時間の外に、或いは時間を越えた永遠の彼方に我々を導く。それは此所にはない何ものかの反映であり、ただ聞いてしまうだけでは許されず、必ずや此所にはないもの、つまり作曲者の意図したものに、我々の精神を(全人間的な魂を、と言っても間違いではないだろう)向けざるを得ないという、そうした厳しい反省を結果として我々に強いることになる音楽である。私の言うモツァルトとバッハは、窮極に於ては同じ次元に属するのかもしれないが、当時の私はこの二種類の音楽にそれぞれ共感し、やがて、第一よりは第二の方へ、少しずつ歩み寄って行ったような気がする。  以上のところは脱線である。私は何も偉そうなことを言う気は毛頭ない。ベートーヴェンに戻って言えば、彼のチェロ・ソナタの第三番と第四番とについて、どちらを選ぶかという出題に対して、昔の思い出をちょっとばかり書けば済む。  第三番は作品六九であり、美しい旋律に富み、チェロの機能を充分に生かした曲である。私はむかしカザルスのレコードでこの曲に親しみ、自分の好きな曲のレパートリーの一つにこれを数えていた。(それに、どういうものかチェロという楽器の音色が昔から好きだったが、どうもチェロは若い人向きということがあるのかもしれない。)しかし療養所の経験が私を第一の分類から第二の分類へと次第に移行させた結果(しかしここで註をいれれば、私はモツァルトよりもバッハが好きになったのではなく、モツァルトの亜流よりもバッハの亜流が好きになったのである。モツァルトに厭きるということは、どう考えてもあり得ないから)私はベートーヴェンに関しては、晩年に属する例えば作品一〇六の「ハンマークラフィア」、作品一〇四の二つのチェロ・ソナタ、そして作品一二七以後の弦楽四重奏曲、こういったものにすっかり共鳴し、ベートーヴェンはこれで足りると思うに至った。これは昔の話である。  そのあと私はベートーヴェンの晩年の心境に対して、充分の理解を感じながら、しかもその作品からは遠ざかったところにいる。或る意味で、ベートーヴェンの音楽は私にとって苦しく、恐ろしく、無気味な印象を与える。それは療養所で生きるか死ぬかという気持でいた頃よりも、今の私が一歩しりぞいて人生を眺めているせいだろう。ベートーヴェンの音楽は単なる慰めではない。モツァルトやバッハとは違う何ものかである。そこには天に羽ばたく翼よりは、深淵を見下す暗い瞳が感じられる。その意味で私は、人が軽々しくベートーヴェンに近づくことを恐れる者である。  チェロ・ソナタの第三番と第四番、作品六九と作品一〇二の一、この二つは一組にするにはあまりにも違った曲である。青年の私は文句なしに第三番が好きだったが、その後の経験は第四番の方を、それよりも更に第五番の方を、私に選ばせた。しかしどれが好きとか嫌いとかいうことは、初めに私が述べたように、素人の単なる感想にすぎず、現在の私はその何れからも遠ざかった。時のうつろうのと共に好き嫌いが変るというのは、いたしかたのないことだろうと思う。 [#地付き](昭和四十五年一月)     音楽三題噺      一、「ルル」雑感  この春ベルリン・ドイツ・オペラが我が国で三度目の公演を行った。私は六つある演目のうちで三つほど前売切符を買い、いずれも期待して出掛けて行き、すべてに満足した。実を言うと残りの三つも、なぜ切符を買っておかなかったのかと、少々後悔したくらいである。  ここで私自身の性質を説明しなければ、それがどうしたと人から言われそうである。つまり私は外出嫌いで、よほどのことがない限り家でとぐろを巻いている方を好む。映画や新劇の案内が来ても殆ど見に行かないから、私が一年間に見る映画の数なんか片手の指で数えられるばかりである。音楽会や展覧会などは割に足が向く方だが、それも家にいてレコードを聞いたり画集を繙いたりしている方が、遥かに分《ぶん》に合っている。その私がオペラとなると、身銭を切って半年も前から切符を買い込むというのは、何と言ってもオペラというものにそれだけの値打があると私が認めた結果である。最初にワグナーの「トリスタンとイソルデ」を、第一回のベルリン・オペラの公演で見て、すっかり味をしめた。勉強のつもりだったのが、娯楽として気に入ってしまった。  もう一つ自分のことを附け足せば、私は音楽にはずぶの素人で、耳に聞いて心地よいと感じるだけ、難しい理窟は分らない。その上ドイツ語の白《せりふ》はまるで理解できない。そういう人間がワグナーのオペラなんかが面白いと言えば、まずスノビスムと嗤《わら》われそうである。そういうところも少しはある。知的好奇心という変てこなものが、私をそそのかしたことも認める。しかしわけが分らなくても面白いのだからしかたがない。その面白さは、一言で言えば綜合芸術の面白さだろう。どうせ言葉が全部分らない以上、筋は大して問題にはならない。(考えてみれば、近頃の小説だって筋になんか頼ってはいない。)しかし劇的な迫力を齎すもの、——オーケストラがあり、声楽があり、舞台装置や衣裳や照明があり、要するに一つの世界を構築するためのあらゆる要素がそなわっている。何よりも音楽が想像力を刺戟するから、その効果は芝居の比ではない。つまり食わず嫌いだった者が、一度食ったら病みつきになったというまでである。  今回の公演で三つ見たうちの、その一つについてだけ感想を書いておく。それはアルバン・ベルクの「ルル」である。十二音技法で書かれた現代オペラと来れば、これも初めは勉強のためという気持が多分にあった。私は現代音楽というのは苦手だが、ベルクはレコードで「抒情組曲」や「ルル組曲」などを聞いていたから、多少の予備知識がなかったわけではない。しかし二時間もあの調子で聞かされたらさぞ退屈だろうと覚悟はしていた。 「ルル」はドイツの劇作家ヴェデキントの原作で、「地霊」と「パンドラの箱」との二つの作品を、作曲者自身が一つの台本に仕上げたものである。蛇によって象徴される女性の悪を徹底的に追求した作品で、女主人公ルルはその美貌と淫蕩との故に、彼女を取り巻く男たちを次々に破滅させ、最後には自分も破滅する。世紀末のデカダンスの風俗の中に、女性の本質がペシミスチックに描き出される。  私はこのオペラを少しも退屈しないで見た。見たと言うか聞いたと言うか、とにかく演出のゼルナー、指揮のホルライザー、そして装置と衣裳とを受け持ったサンユストの三位一体に、主役のルルをつとめたキャサリン・ゲイヤーの熱演があって、二時間の間、固唾を呑んでいたという他はない。何しろ筋の方は複雑多岐で、とても私にはついて行けなかったが、ベルクの音楽は少しも難解といったものでなく、或る意味では優美で抒情的である。それに白と黒とを基調にした舞台装置に、紫の衣裳を着た女主人公の動きが見事な効果を上げている。ベルクの原作は第二幕までしか完成していなくて、最後の幕は「ルル組曲」の第五楽章の部分しかないが、ゼルナーはそこをパントマイム風に演出して音楽だけを響かせ、伯爵夫人のアリアで締めくくっている。光と影とを組み合せたこの最後は、実に鮮かな演出だった。  キャサリン・ゲイヤーというソプラノ歌手については、声が響かないという批評があったが、縦横無尽に舞台を動きまわり、縦になっている時ばかりでなく寝たり転がったりしながらも歌うのだから、その労力たるや大したものだった。演技力から言っても恐るべきものである。しかし本来は風俗劇であるものが、一種の実存的な意味合いを持つまでに高まっているのは、やはりベルクの音楽があってのことだと痛感した。  というわけで、もしもベルリン・オペラがもう一度来たら、今度は全部行ってみようかと今から愉しみにしている。      二、百枚のレコード  先日我が家のステレオを修理に来た青年が、嬉しそうな顔をして、自分のレコードをもう二百枚ぐらい持っていると言った。レコードは安くないから二百枚もあれば一財産である。彼は音楽器具やレコードを商う店に勤めていて、商売と趣味とを兼ねている点、羨しい身分だと感じた。そこでレコードなんてものは、何枚ぐらいあれば足りるのだろうかと考えた。  私の友人に文学の批評家で、いつのまにか音楽の方でも批評家になったワグナー好きの男がいる。一夕ベルリン・オペラの会場で会って話をしたら、彼は六回の公演全部の切符を買ったばかりでなく、そのレコードも六種類全部取り揃えたそうである。演奏会の前にレコードを聞いて勉強するというのは大した心懸けだが、それでは時間がかかってかなわないだろうとひやかしてやった。何しろ彼が音楽の(と言っても主としてレコードの)批評家になったのは、ほんのここ数年来のことだが、やたらにレコードを買い込んでいるらしいので、何枚ぐらい集まったと訊いてみたら、ざっと二千枚、二階がその重みで軋み出したと言って嘆いていた。レコードが侵入するにつれて、商売道具の書籍類が次第に書斎から追払われつつあるそうだ。二千枚のレコード全部を聞くのに、どれだけの時間を必要とすることやら。いざ聞きたい曲があっても、その在り場所を探し当てるのに一苦労すると深刻な顔をしたのが、おかしかった。  もう一人、レコードは持っていてもステレオの機械の方はお持ちでなかったというマーラー狂の友人がいる。(因に先程の友人は、初めは安物の機械しか持っていず、恐らくセミプロの批評家ぐらいに達した時に、上等のに取り替えた。)こちらの方はフランスで買って来たというレコードを、聞きもせずに愛玩しているのが滑稽だったが、何年か経ったところで、やっとのことオーディオ専門家の応援を仰いで、上等の機械を据えつけた。  これら二人の友人は共に音楽の話をしている限り舌の根の乾くことがないような連中だが、さて私はと言えば、ステレオの機械はメーカー物の普通品で、レコードの数もさしたることはない。それというのも私の好みは広く浅くというふうには発展せず、好きな作曲家、或いは好きな曲が限定されていて、気に入ったとなると同じ曲を繰返し掛けている方だからである。こういうことは専門の文学の方でも似たような傾向を持ち、気に入った作家のものは端から集めたくなるが、そういう作家の数はあまり多くはないから、従って蔵書の数も大したことはない。レコードに関しては、バッハに凝り始めた時期には、あらゆる作品を買い漁って、声楽曲以外はあらかた揃ってしまった。それに「フーガの技法」などのような、楽器を異にした演奏が色々あるものは、どれも皆ほしくなる。それでもまだカンタータの類が大量に残っているから、愉しみは尽きないわけだ。恐らくまず器楽の域を通り過ぎなければ、バッハの宗教音楽のよさは私のような凡俗の耳には入りにくいところがあるのだろう。  ところでバッハの器楽曲が一通り手許にあるとして、我ながらどの位聞いているものだろうか。夢中になっていた頃は蒐集狂的な関心が先に立ったから、手に入っただけで安心して、しみじみと聴き惚れていたかどうかは怪しい。やはり或る程度揃ってから、こちらの気分に応じて適当なものを選び出し、じっくり聴くということになる。しかし適当というのが曲者で、例えば一時私はクラヴサンの曲は午前によく、オルガンの曲は夜がいいと信じていたが、いくら夜が長くてもオルガンばかり三枚も五枚も聞けばくたびれるにきまっている。その結果、どんなにバッハに凝ったとしても、自然にいつも手が出るものと、敬遠するものとの区別が生じるのは、けだしやむを得ないところだろう。無伴奏チェロ・ソナタは傑作だと承知しているが、或る決心をしてからでないと手軽に掛ける気にはならない。そこに行くと例えば「フーガの技法」は、ヴァルハのオルガンで聞くのとレオンハルトのチェンバロで聞くのとでは趣きが違う。室内楽ふうのアレンジでも、クルト・レーデルの指揮のものとリステンバルトの指揮のものとでは、別人の感がある。私はこの頃一番最後にあげたレコードを最もよく掛けるが、しかしこれさえあれば他のバッハは要らないというものではない。  私はむかしよく吟味された百冊の書物があれば、愉しみとしては充分だと考えたことがあった。その百冊は大体に於て詩集及びそれに準じる作品で、そのリストは時と共に多少は変ったとしても、気分に応じて(私の気分の範囲はそう広くないから)空想の書棚から抽き出すのにこの百冊があれば足りた。同様にレコード棚にも、百枚の気に入りのレコードがあればそれで充分のような気がする。私は時々、眠られぬ夜などに、その百枚をあれこれと選定し、バッハはどうしても二十枚から三十枚は要るだろうなどと考え、その次にモツァルトに差しかかったあたりですやすやと眠ってしまうのである。      三、音楽療法  梅雨の最中にローマ合奏団が我が国を訪れて、大阪の公演を済ませたあと東京に来て四回ほど公演を持った。そのうちの二回は器楽だけの演奏で、あとの二回は小型のオペラである。私は一週間に四晩も上野くんだりまで出掛けるほどの音楽好きではない。それがとうとう一晩も休まなかった。この間のドイツ・オペラの時につい前売切符を買わずにいて見そこなったものがあるのを、かねがね口惜しく思っていたから、それで奮起したと言えないこともないが実は多少の理由がある。  バロック音楽が我が国ではやり出したのは割合に近頃のことに属するが、私が初めて親しんだのはローマ合奏団の演奏した五枚物の「イタリアン・バロック音楽選集」によってである。それも私のレコードではなく、細君が友人から病気見舞に貰ったもので、それを彼女が繰返し聞くので、お相伴をしているうちについこちらも親しみを覚えるに至った。この五枚物はデツカのモノラル盤で、代表的な名曲が上手に選ばれているから入門には打ってつけと言えよう。そこでバロックに入門して、以後イ・ムジチや、ソチエタ・コレルリや、パイヤールや、ミラノ合奏団や、その他いろいろの演奏によるレコードを聞くことになったが、ファサーノの指揮するこのローマ合奏団の演奏が、第一印象ということもあって一番気に入っていた。これは細君にも私にも共通して言えることである。  前回にレコードの枚数などという素朴なことを書いたが、我が家では私のレコード棚と細君のそれとは劃然と区別されている。彼女の方は室内楽が主で、交響曲や声楽は一枚もない。それというのもこの五年ばかり寝たり起きたりの病人だったから、静かな音楽でないと受けつけない、オーケストラやオペラなどはくたびれると言う。当然そこで彼女が最も熱心なのはバロック音楽ということになる。仮に私がヴィヴァルディやアルビノーニを買って来ても、それはたちまち彼女のレコード棚の方に拉致《らち》されてしまう。実を言うと私のところにはバロック音楽は殆どなく、聞きたくなるとその度に借りて来る始末である。(ついでに言えば悶着のたねはバッハである。これは二人とも好きなのだからしばしば取り合いになる。従って棚から棚へ往ったり来たりしている。尚レコードを掛けるべきステレオの機械も、ちゃんと二台ある。これを一台にすればもう少し高級なのが買える筈だが、私は書斎で聞く、細君は寝て聞くのだからしかたがない。)  さてその病人の細君が、去年あたり隣家の違反建築事件で奮い立ったせいか、この頃次第に具合がよくなって来て、無理をすれば音楽会にも出掛けられるようになった。もし音楽療法ということが言えるとすれば、さしもの難病が治癒に向ったのはバロック音楽のお蔭であろう。私は都合が悪くて行けなかったが、この間のパイヤールにも単身出掛けて行きだいぶ自信をつけたようである。そこに今度のローマ合奏団となれば、亭主たるもの前売切符を取り揃えるぐらいのことはしてやらなければなるまい。  私の方にしても、パイヤールやイ・ムジチは演奏会に出掛けたことがあるが、ローマ合奏団のこの前の訪日の時はまだ関心がなかったのだから、今度が初めてで、折角の機会を逸することは出来ない。そのうちの二回の演奏会はヴィヴァルディの作品三の「調和の幻想」全十二曲を分けてやるそうで、これは細君同伴。しかし彼等が伴奏を受け持っている室内歌劇団が、一回はチマローザとロッシーニの短いオペラ・ブッファを、もう一回はパイシェルロの「セビラの理髪師」という珍しいものをやる。私はこっちの方にも行きたい気持がある。結局のところ三回までは前売を買い、一回は当日売りの切符を買って、私は皆勤、細君も三回まで通うという前代未聞の椿事とはなった。  ヴィヴァルディだけで二回のプログラムは、専門家に言わせると重すぎて敬遠したくなるそうだ。素人である我々は充分にヴィヴァルディを堪能して、ちっともくどいとは思わなかった。この前のイ・ムジチの公演で、フェリックス・アーヨが抜けたのが残念だと思っていたら、いつのまにかローマ合奏団のメンバーに入っていたのには驚いた。ファサーノの指揮のもと、こんなに見事に揃った弦の美しさは他に類がないだろう。会場には半病人らしい人もいて、これまた音楽療法の患者に違いない。室内オペラの方は弦の他に管楽器も加わり、演奏は水際立っていたし、主役のバリトンも上手で、小ぢんまりと愉しかった。  但しこれだけせっせと通うと、そのあとがっくりというのは無理もない。細君は本望だと言って寝てしまい、看護役の亭主の方も大役を果して少々へこたれた。 [#地付き](昭和四十五年五月—七月)     シベリウスの年譜  年譜というものは、それがどんな簡単なものであっても、眺めていると色々なことを考えさせてくれるものだが、手許にあるロバート・クレイトンの「シベリウス」という本の附録についている年譜には、特に興味を惹かれるところがあった。この十頁ばかりの簡潔な年譜は、一番初めのシベリウス誕生の年の一八六五年には、当時現存の音楽家たちの名前と年齢が、例えばベルリオーズ六十三歳、ブラームス三十二歳、マーラー五歳というように挙げられ、そのあとはシベリウスの生涯と他の音楽家たちの生歿年とが左右に並んで掲げてある。例えばシベリウスが「第一交響曲」を初演した一八九九年、彼の三十四歳の年には、ショーソンが死にプーランクが生れたといった具合である。  この年譜を見ながらまず気がつくのは、シベリウスが作品に何度も手を入れていることだ。芸術家が自分の作品を大事にするのは当り前だとしても、一度出来上ってしまったものにはもう目もくれず、次の作品に向ってひたすら驀進する型の芸術家と較べるならば、シベリウスが彼自身の内部に、自己に対する厳しい批評家を持っていて、常に理想的な完璧を目指して仕事をしていたことは明かである。「第五交響曲」などは、初め一九一五年に作られた時には四楽章だったものが、一九一九年の決定版の方では三楽章に変ってしまった。そういうことは他の作品にもしばしばある。そしてそれは決して生やさしいことではあるまいと考える。  シベリウスの年譜が他の誰の年譜とも違っている点は、これは年譜を見るまでもなく周知の事実だが、一九二五年、六十歳、「タピオラ」のあとでは、ほんの少々の記事をのぞいて、年号と年齢のみしかない空欄が、一九五七年、九十一歳の死の年まで続いている点である。そしてその間に歿した同時代者の音楽家たちが、反対側に行列をなして印刷されている。それを見ていると、シベリウスが沈黙していた三十年間に、彼より後に生れて二十世紀の音楽を築き上げた旗手たちが、一人残らず死んだ、といった印象を禁じ得ないのである。  シベリウスがその「第七交響曲」の後に「第八」を書いている、いな書いた、という噂は、シベリウスの生前に広く流れていた。そして彼が実際にそれを作曲しつつあったことは疑うことが出来ない。しかしシベリウスは遂にそれを発表することなく、墓の彼方へ持って行ってしまった。その理由は人によってどうにでもつくだろうが、やはり彼自身の内部の批評家が、その作品の価値を納得しなかったという点にあるだろう。他人なら極めて容易に認められるような美点も、本人から見れば(しかし本人だからこそ自惚れる場合も少くない。その方が寧ろ多いかもしれない)絶対に許せないということがあるのだ。私は昔からシベリウスが好きで、今でも時々、バーンステインによる全集か渡辺暁雄による全集かによって、「第一」から「第七」までを一度に続けて聴くことがあるが、この「第七」のあとに果して何が来たらいいのか、期待よりは不安の方が強い。シベリウスは一つ一つに全力をあげ、遂に「第七」で完全に彼自身の表現を終った、というふうに私は感じる。そしてシベリウス自身も、自分の仕事は終った、もう附け加えるべきものはないと考えたのではないだろうか。年譜の片側の空欄と、もう片側の死んだ音楽家たちの名前の羅列とを眺める私の感慨に似たようなものを、シベリウス自身も感じていたに違いない。この間亡くなられた志賀直哉も亦、晩年には殆ど作品の発表がなかったし、その晩年は長く続いていた。それは美しい晩年と呼ぶにふさわしいような気がする。空白であることもまた一つの芸術的表現であり、自分の過去の作品よりもすぐれていると自ら認めない限り、決して公表しないと決意することは、心ある芸術家の自尊心といったものである。シベリウスの場合にも、その潔癖な態度はこの上なくすがすがしい。その作品が死によって途絶えたのではなく、ありあまる生によっても途絶えていたという点に、私がシベリウスを愛惜する理由の一つがあるのかもしれない。 [#地付き](昭和四十六年十一月)  [#改ページ] [#小見出し]  身辺雑事    デュヴィヴィエの頃  昨年フランスの映画監督ジュリアン・デュヴィヴィエの訃報がはいった時に、私は某新聞から、私たちの青春と絡ませてデュヴィヴィエの思い出を書いてもらいたいと頼まれた。私はその時むやみと忙しかったし、だいいちそんなものを書けばお年が知れるとばかり、にべもなく断ってしまった。あとから考えてみると、デュヴィヴィエに対して申訣のなかったような気がする。勿論私はデュヴィヴィエその人を識っていたわけではない。しかしその作品に至っては、我ながらよく見ているし、この機会に一言あって然るべきところだった。そこで遅ればせに短い文章を艸することにした。  デュヴィヴィエの作品をよく見ていると言っても、正確なリストを持っていないが、戦前の十五本ぐらいは全部見ている筈だ。戦後は私は映画を見ることを殆ど廃してしまったから、せいぜい五本か六本ぐらいだろう。それも昔日の名声に惹かされて見に行ったのだが、大して感心しなかった。デュヴィヴィエも老いたものだというような感慨を「わが青春のマリアンヌ」の時に感じた覚えがある。何と言っても「にんじん」から「幻の馬車」に至る間、つまり一九三〇年代がデュヴィヴィエの黄金時代だったろう。そしてそれはまた、ルネ・クレールとジャック・フェーデと並んで、フランス映画の黄金時代だったような気がする。それが私の青春と結びついているのは、つまりは偶然ということである。  私が旧制の高等学校にはいったのは昭和九年で、私は数え年の十七歳にすぎなかった。いきなりフランス語を詰め込まされて、息を抜く暇もなかった。「にんじん」はその年の封切で、「ふらんす」というフランス語の雑誌が小さな別冊附録をつけて、そこに「にんじん」のシナリオを載せた。私は字引を引いてせっせと白《せりふ》を諳記し、この映画を三度か四度は見に行った筈である。つまり私は勉強のためにこの映画を見たので、その芸術的な出来栄えに感心したのは副産物だった。一般に教科書で教えられた文学作品は、語学の勉強が先に立つからよい印象を残さないということがある。私が今でもモーパッサンやアナトール・フランスによそよそしいのは、旧制高等学校で苛められたせいに違いない。それと同じような事情が「にんじん」の場合にも当てはまるだろう。  私がデュヴィヴィエに完全に降参したのは、「商船テナシチー」に於てである。それからは「モンパルナスの夜」はインキジノフという俳優によって、「地の果てを行く」はジャン・ギャバンとロベール・ル・ヴィギャンとアナベラによって、内容の暗い雰囲気が肉附されている点に感じ入った。このあたりで私は、デュヴィヴィエというのは文芸映画の大家であることを知り、原作の方にも興味を持つようになった。そして脱出《エヴアジオン》という主題がデュヴィヴィエの関心事であることに気がついた。  一九三〇年代は文学的に言っても、脱出の主題を踏まえた作品が多い。しかしデュヴィヴィエの映画は、文学作品よりも一層簡明に、この主題を扱っていて、「我等の仲間」にしても、「望郷」にしても、「舞踏会の手帖」にしても、脱出と無関係ではなかった。そして私たちのように、学生生活が終れば徴兵検査が待っている青年たちにとっても、それは単にロマンチックな願望というだけではなかった筈である。或る意味で私たちは、身につまされながらペペ・ル・モコの運命を見守っていたとも言えるのである。従って昭和十六年という戦争の始まった年に封切られた「幻の馬車」は、文芸映画としては成功作ではなかったかもしれないが、私たちの青春に対して暗い不吉な予感を与えた、恐らくは一番最後の外国映画ではなかったかと思う。映画はカメラという非情な機械を媒介としているから、幻想的な作品はそれなりに難しいだろう。しかし三十年代の末期に、ラーゲルレーフの原作をわざわざ見つけ出して映画化したデュヴィヴィエの心中は、私たちの共感をそそるに充分なものがあった筈である。 [#地付き](昭和四十三年一月)     瓢箪から駒  その頃彼は散平《さんぺい》と号して俳句を作っていた。どういう策略を用いてか療養所のなかの六人部屋に石田波郷氏と合部屋でいたのだから、俳句がうまくなるのにこんなうってつけの環境はちょっとない。療養所のなかでは俳句は手軽なこともあって大いに流行し、波郷さんのお弟子の数は多かった。しかし田村散平は三羽烏か四天王の一人だったろうと思う。  私は同じ病棟の別の大部屋にいて、詩を書いている若い連中の同人雑誌に関係していた。すると散平が今度は詩を書き始めて、たちまち私と親しくなった。何しろ私はこの療養所に足掛け八年もお世話になったくらいだから、その間におびただしい人を迎えたり送ったりしたが、この青年とは奇妙に馬が合ったようである。彼が手術を受けた晩に、夜っぴて附き添っていたこともある。その細きこと針金の如く、その痩せたること骨の上にすぐさま皮がついているほどで、しかもその骨が、両側成形のために右の肋《あばら》も左の肋も半分くらい取られてしまったのだから、とても長持ちのする身体とは見えなかった。ところがそれはまったくの杞憂で、あとから入院して来て私よりも先にさっさと退院してしまった。  私が療養所を出て世帯を持ってからは、彼は散平ちゃんと呼ばれて、しょっちゅう我が家に入りびたり、来るたびに「いやんなっちゃうなあ」を合の手に入れてこぼした。彼は検察庁の事務官か何かで、毎日の勤めが厭になったからやめたいと言う。但し、ただやめたいというのではない。 「お花の師匠になろうかと思うんですがね。なに一年も勉強すればあんな免状ぐらい取れるでしょう。取れないかな。」 「バーテンになるつもりなんですよ。あれはやってるうちに覚えられるからな。いまこの本を読んで練習中です。まったく厭んなっちゃうなあ。」 (この本というのは「コクテル辞典」というので、後にもう要らなくなったからと言って私にくれた。もっともその時、彼はシェーカーを振る手つきをして見せたが、なかなか堂に入ったもので、君がバーテンになったら僕はただで飲めるな、とけしかけた覚えがある。) 「大道易者が楽でいいと思うんですよ。筮竹さえあれば出来るんだからな。しかしひげを生やさなければ貫禄がないでしょうかね。厭んなっちゃうなあ。」  散平ちゃんがひげを生やしたらどんなだろう、と言って細君が腹を抱えて笑った。この笑い声がだいぶこたえたらしく、彼は処女長篇に「ひげのある男たち」という題をつけ、登場する全員にひげを生やさせた。  私がつい、それなら探偵小説でも書けばいいだろうと口を滑らせたのが、瓢箪から駒ということになって、結城昌治が誕生した。しかし彼には今でも、なりそこないのお花の師匠のような、もぐりのバーテンのような、またひげのない大道易者のような、ところがある。 [#地付き](昭和四十三年十一月)     月と広島  人間が月の表面に着陸するというのは、既に前世紀から空想科学小説の材料だった。その空想が実現して、二十世紀最大のショーのようにもてはやされたのは、アメリカ人には当然かもしれないが、日本人まで拍手喝采したのは少し腑甲斐ないようである。誰しもやじ馬根性はあるから、テレビにかじりつくのは当り前としても、少々お祭り騒ぎが過ぎた嫌いがある。私のようなつむじ曲りは、アメリカ国旗を立てたという点にひっかかる。宇宙飛行士はアメリカ人である前に、まず人類の代表であってほしかった。  ところで空想科学小説が約束したことを、人間はこれからも一歩また一歩と実現して行くだろう。そのうちに、昔はたかが月ぐらいで大騒ぎをしていたと笑うようになるかもしれない。科学の進歩はたしかに目覚ましいが、それが両刃の剣であることは言うまでもない。月面着陸と相前後して、沖縄での毒ガス事件などというニュースを聞くと、私がどんなに世事にうとくても夏なお寒い思いをするのである。  人間は忘れやすいから、広島、長崎の原爆による被害が科学の進歩の一つの結果だったことを、今ではあまり思い出さない。しかし目先の新しいショーにばかり気を取られないで、過去を振り向くことも大切なのだ。広島、長崎を忘れないことは人類の義務である。月の表面のテレビを見ながら、私は原爆後の広島の荒涼とした焼跡の写真を、思い出さざるを得なかった。 [#地付き](昭和四十四年七月)     宵越しのぜに  銀行に勤めているのは固い人間の代表のようなものらしい。勤倹貯蓄の精神に富み、曲ったことは嫌いである。  私の親父は東京帝国大学を出て、某大銀行に勤めていた。出世の道は約束されていた筈である。初めのうちは横浜とか福岡とかの支店に廻されたが、子供の私が小学校の三年生の時に東京へ移って、それから本店勤めを続けた。父一人子一人の家庭で、学校を変えるのは子供の教育上よろしくないという主義を持ち、どのような転任の命令にも頑として承知しなかったらしい。これでは出世する道理がない。そして戦争中に、あと数年我慢すれば停年退職になろうというのに、自分で商売を始めると称してさっさとやめてしまった。その諦めのよいことは見上げたもので、最後まで平行員で過した。戦災で無一物になり、以来気の毒なほど苦労をしたが、今にいたるも健康を保っている。およそ算数に暗く、人づきあいの下手なたちだから、よくよく銀行に勤めていた間は厭なことばかり多かったのだろうと同情する。  その親父にしてこの子ありだから、私が少しばかり変人だと思われているのも無理はない。戦前の銀行員は、今の物価に較べれば高給を食《は》んでいたに違いないが、私の親父は朝寝が好きできまって寝すごし、護国寺の前から日本橋まで、毎朝タクシイで通勤した。当時の円タクは安かったとしても、万事その調子だから江戸っ子でもないのに宵越しのぜには持たないきっぷがあった。朝寝坊も遺伝するが、このようなきっぷも遺伝するらしい。私も貧乏生活には馴れていて、そのくせタクシイを足の代りに使う。ちびちびと金を溜めることは大の嫌いである。十年ばかり前のこと、細君があまりに嘆いて、あなたのように借家住いが好きで自分の家を持とうという気構えもなく、生命保険は嫌い、貯金は嫌い、銀行に一歩入るとめまいがする、などと勝手なことばかり言って、一体この先々をどうする気なんです、と私に詰めよったから、それから私も少しは心を入れ換えた。  親父の職業というものは、一般に言って、子供の性格に或る種の影響を与えている筈である。私がずぼらなように見えて案外に律義《りちぎ》であり、例えばこういう原稿を引受けた以上は必ず書くというのも、つまりは親父からの遺伝というものであろう。 [#地付き](昭和四十四年七月)     万年筆  万年筆は文士にとっての刀である。と洒落れて言っても語呂は悪いし、また現状に即しているとも言い難い。本来なら、文士の刀は筆であるべきだった。毛筆で原稿を書いたのは永井荷風、谷崎潤一郎ぐらいでお終いだろうから、筆は明治の文士にとってのみ刀であったような気がする。大正の文士というと、私には何となく細みのペンが似つかわしく思われる。それから昭和前期ともなれば言うまでもなく万年筆全盛だが、昭和後期(つまり敗戦以後という意味)ともなれば、万年筆の位置に取って替るものがぞくぞくと生れて来た。鉛筆、ボールペン、サインペン等々。これは文運隆昌の世の中、流行作家は早きが上にも早く書くことを要求される結果、なるべく軽くて運びの滑かなものを使うようになったのだろうと思う。つまり明治以来、文士の執る武器は、毛筆、ペン、万年筆、ボールペンもしくは鉛筆というふうに進化した。刀の代りに弓、小銃、そして盲撃ちの機関銃になったようなものである。  筆力旺盛で書きたいことが滾々と溢れているような時期なら、道具の良し悪しは意に介するに足らない。私なども戦争中に、勤めが終ってから毎夜せっせと長篇小説を書いていた頃は、道具の良否を論じなかった。その頃愛用していたのは学生の頃買った丸善のアテナ万年筆で、原稿用紙もなかったから大学ノオトに書いていた。その小説が未完のまま中絶したのは、従って万年筆の責任ではない。戦後初めて「塔」という短篇を試みた時も、同じ万年筆を使って大学ノオトに書いたから、枚数の計算が出来なくて弱った覚えがある。  このアテナ万年筆はやがて寿命が尽き、それからウォーターマンを使った。そのペン先が摩滅して、今度はモンブランとペリカンとを買った。その二つを代る代る用いているうちに、仲よく両方ともくたびれてしまった。いくら名前が万年筆でも、そんなに長くは使えない。新品に馴れるまでに半年はかかり、そのあとせいぜい五年ぐらいでペン先がすっかり傷んでしまう。もっとも原稿を書く量にもよることだから、一概には言えないだろう。私のように、極めて僅かの仕事しかしないことを自分に命じている人間でも、万年筆だけは温存するわけにはいかない。  二三年前に、こうして手持の万年筆がどれも役に立たず、新品を購っても一つとして気に入らないようになった。万年筆が思い通りに働いてくれない以上は、頭脳の方も働かない道理で、書きかけの長篇小説が真中のあたりで中絶したままになっていた。そこで出版社の或る編輯者に、この男はかねて文房具の蒐集を趣味としていたから、ちっとも書けなくなったのは万年筆のせいだとこぼしたところ、それならボールペンを使ったら如何かと言って私の時代遅れであることを暗に嗤った。私には妙に古風なところがあるから、実は万年筆をやめていっそ毛筆にでもしようかと考えていたところだと言って、文士たるものがボールペン如きで字が書けるものかと威張ってはみたものの、こっそり使ってみると何と滑りの早きこと万年筆の比ではない。その長篇小説の残り半分は、ボールペンを駆使してやすやすと書き上げた。しかし何となく寝覚はよくないのである。  それからもボールペンを使ってはいるが、いまだに借り物の感じで、これが自分の書いた字かと疑う。それにボールペンでは苦吟とか彫琢とかの感じがしない。何しろ私は仕事は遅いし、書いたり削ったりしながら書けないことそれ自体をも愉しみたい、ボールペンでは水到リテ渠成ルが如くに書かなければ相済まないようである。それにボールペンなら必ず早く書けるときまったわけでもなし、初めの頃のあらたかな霊験も少々消え失せたような気がする。  先日また百貨店の売場で万年筆の新品を漁っていたら、修理に出せばペン先を取り換えますと耳よりのことを聞かせてくれた。さっそくモンブランとペリカンのペン先を新しくして、目下試験中である。しかしボールペンから万年筆に戻ったら気に入ったものが書けるかどうか、その辺はどうも心細い。 [#地付き](昭和四十四年十一月)     暖かい冬  世の中が便利になって来ると、ありがたすぎて迷惑なことも起って来る。例えばこの頃の冬は暖房設備が行き届いて、少々あたたかすぎるようになった。一つには自家用車族がふえたことも作用しているのだろうが、劇場、百貨店、ビル、喫茶店、どこに行ってもむっとする程の暖かさで、外套を着ていると汗ばむほどである。電車の中もこれまた同じ。若い人たちが外套なしですいすいと歩いているのを見ると、必ずしも伊達の薄着とは思われない。都会はどこもかしこも人間と車とで充ち溢れているから、人いきれと排気ガスも暖房に一役買っていると言えないこともない。  但しこれは外のはなしである。内の方はどうかとなると、やはりガスストーヴや石油ストーヴや電気こたつが幅を利かせているだろうから、季節感を取り違える程にはいたらない。中央暖房などという設備は、個人の家ではそんなに簡単には普及していないようである。私は子供の頃から大の寒がり屋で冬は大嫌いだから、何とか暖かく暮したいと思ってはいるが、人工的にむやみとのぼせるのはあまり感心しない。仕事をするには適当なうそ寒さも必要だろうと思う。  昨年の暮に駆け足で神戸に行って来たが、そこのホテルは熱帯性暖房が通っていて、熱風が天井から吹きつけた。スイッチを切っても、真夏の熱気を一晩じゅう保っていた。そのあと奈良に行ったら、そこのホテルでは大きなスチームがかたんことん唸っていて、窓を明けて寝てもこれまた摂氏二十五度を下らなかった。すんででフロントに団扇を貸してくれと頼むところだった。こういうのはサーヴィスの過剰である。それから京都に行き馴染の小さな宿屋に泊ったら、ガスストーヴと電気火鉢があるばかりで、襖のあけたてに隙間風がすうすう入って来る。やっとのことで冬らしい、そして旅先らしい気分になった。寒すぎるのは御免だけど、ちっとも寒くないのではせっかく京都に行った甲斐《かい》がないというものだ。あれで電気火鉢の代りに本物の炭がいけてあったら、更に申し分がなかったのだが。  今年の正月は三ヶ日を過ぎると寒波が襲って、五日の日は大風が吹いた。私は家にいるのに厭きてふらふらと町をさ迷い、爽快な感じを覚えながら歩きまわった。私の子供の頃は空には凧があがり、道には羽子板の音が聞えていたものだが、この頃の子供たちは何をして遊んでいるのだろう。私は霜焼がひどくて夜は蒲団の中に湯たんぽを入れてもらっていた。それを別にすれば、暖房といっても火鉢と小さなガスストーヴぐらいしかなかったから、子供は表に遊びに行った方が寧ろ暖かい位だった。そして寒がり屋の私は、冬の来るのをまるで宿命のように恐れていた。  それから文明が大いに進み、今では寒かった昔の冬を懐しむというのは、そろそろ私が懐古趣味に陥ったということなのだろうか。それともこれが文明の宿命というものなのだろうか。 [#地付き](昭和四十五年一月)     平安京の春     一 初めに  この春、私は書斎に閉じこもったきり殆ど外出もせず、この分では「たれこめて春のゆくへも知らぬまに待ちし桜も移ろひにけり」ということになりそうだと諦めていたら、たまたま見も知らぬ女性編輯者が現れて、京都を散歩してその紀行文を書くという仕事を私に持ち込んだ。これはうまい話だと思ったら註文には先があり、現在の京都に王朝文学の面影を偲びながら、二重写しに書くのだそうである。とんでもない。私が京都を好み幾度か足を運んだことがあるとしても、たかが旅人である。王朝文学といっても源氏物語や今昔物語をかじった程度で、これまた素人の横好きの域を出ない。そんな難しい註文をこなせる程の学識もなく教養もないのだから、我が友人の中村真一郎こそ適任だと推薦したら、かの女性はにっこり笑って、中村先生には別の原稿をお願いしてあります、と巧みに逃げられた。その上スケジュールはわたしが立てます、故事来歴はわたしが調べますとおっしゃるから、それでは是非もないと陥落した。以下の文章が面白くないとすれば、まったく編輯者が人選を誤ったせいである。  しかし私が仏頂面をして西下したと思われては困る。季節は四月の上旬で、一昨年も同じ時期に京都に花見に行ったが時はまさしく花の盛りである。その時同行した関西在住の私の若い友人は、その後自動車の運転を習い覚えて、今や手ぐすねひいて私を案内せんものと待ち構えている。それに初日は中村真一郎も京都にいて、行を共にする手筈になっている。とすれば、源氏物語の試験の前に修学旅行に出掛けるようなものだから、せいぜい学生気分になって、あとの試験はその時の風まかせという心持にもなろう。  ついでながら同行者の名前を頭文字などで示すのは、あまり風流とは言えない。そこで私の若い友人は、どういう加減か馬の口を取って引きまわすのが好きだから、彼を惟光《これみつ》君と呼ぶことにしたい。私は引きまわされる馬の方で、決して光君《ひかるぎみ》を以て自ら任じているわけではない。女性の編輯者は、一緒にいるうちに次第に分ったことだが、学識教養ともに大した才媛で、私も惟光君もしょっちゅう恐れ入らされた。そこで彼女を紫さんと呼ぶことにする。紫の上が好きなのだそうだが、これは紫式部の紫である。中村真一郎は本名でいいだろうが、譬えればまあ定家卿というところか。私などはせいぜいどこぞの山奥の隠者である。     二 嵯峨野 [#地付き]琴の音に峰の松風かよふらし        [#地付き]  いづれの緒よりしらべ初めけむ      四月八日、惟光君の車に乗って嵯峨に行った。  嵯峨は京都の中でも最も足の向くところである。もう十数年の昔になるが、やはり春の時節、暖かい日射を浴びて数人で嵯峨を歩いたことがあった。その頃は竹籔の間の小道を歩いて行くと殆ど人に出会うことがなく、道を間違えて同じところを往きつ戻りつしたものだ。その後年と共に嵯峨もひらけて、人も通れば車も通る、竹藪を切ったあとに公団住宅が建ち並ぶようになってしまった。  王朝の昔は嵯峨野はもっと広く、大井川と御室川との間の地域を占めて、草深い田舎だったに違いない。嵯峨天皇が離宮を営まれ、その第十皇子の源|融《とおる》が栖霞観《せいかかん》と名づけた山荘をつくった頃でも、車馬の通う道のほかは昼でも鬱蒼と暗かったことだろう。そして大宮人たちはこの地を訪れて、月をめでたり虫の音を聞いたりした。大覚寺に嵯峨院の跡を見、清涼寺の阿弥陀堂に栖霞観の跡を見ることが出来るとしても、それらは勿論過去の姿をそのままとどめているわけではないから、私たちは幻視力といったものを要求されることになる。これが物語の世界になると、たとえモデルらしいものがあってもあくまでフィクションなのだから、あまり穿鑿するとおかしなことになろう。  例えば源氏物語では、明石上が姫君を連れて京にのぼって住む寝殿は「大井川のわたり」の「えもいはぬ松かげに」とあるから、恐らく亀山公園の附近かと思われるが、源氏が営んだという嵯峨野の御堂は、果して栖霞寺をモデルにしていたかどうか。建物がそのまま残っていない以上、自然の風物の中に幻を描くほかはない。  さて私たちはまず野宮《ののみや》神社に行った。嵯峨を歩くには取っつきのところにありながら、野宮はつい人が見過すらしくていつでも静かである。山陰線の線路がすぐ裏を通っていて、時たま列車が轟音を立てて通る。この神社は今もなお簡素なたたずまいで、「物はかなげなる小柴を大垣にて」とか「黒木の鳥居どもはさすがに神々しう見渡されて」とかいう光景は昔に変るまい。野宮は伊勢神宮に奉侍される未婚の内親王がたが、それに先立って潔斎された場所で、往時はもっと規模が大きかったに違いないが、本来が野にある宮なのだから簡素なのも当然である。源氏物語では「賢木《さかき》」の巻に源氏が野宮を訪ねるくだりが、秋の描写によって哀れ深い。六条の御息所《みやすどころ》が源氏の愛の衰えたのを嘆いて、斎宮《いつきのみや》となった姫君と共に此所にこもる、そこに源氏が訪ねて来る。「くやしき事多かれど、かひなければ」という情感が、この一節に流れている。  野宮神社で思い出されるのは、運命によって強制された斎宮たちの身の上よりも、架空の人物である六条御息所の方である。謡曲の「野宮」にも描かれている車争いという劇的な事件が、この女性を無意識のうちに生霊と化さしめる。葵の上を悶死させるのは決して御息所の意志ではないが、この世を去った後も無意識が死霊となって残り、紫の上や女三の宮の前に現れるのを見れば、彼女の源氏への愛は実に純粋かつ激越だったと言わなければならない。源氏はその姫君を中宮として入内させているし、また御息所の人柄を「さま殊に心深く、なまめかしきためしにはまづ思ひ出でらるれど」(「若菜下」)と語っているのに、それを聞かされた紫の上が被害を受けるのは、筋違いと言ったものだ。しかし六条御息所は、源氏物語に登場する数多い女性群の中でも、必ずしも人気がない方ではない。現に紫さんなども好きだと明言したが、その理由はひたむきに貫くところがいいのだそうである。男性にとっては猛烈すぎて恐ろしいような気がする。  野宮神社では馬酔木《あしび》の花が盛りだった。あたりの竹林は昔より減った感じで、以前はここの売店で「野宮」と焼印を捺した竹筆を売っていたが、それさえ商っていなかった。私たちはそこからぶらぶらと厭離庵《おんりあん》の方へ歩いて行った。  厭離庵へ通じる竹藪の間の小道は(そして嵯峨にはこうしたひっそりした小道が多いが)やはり竹を切られてずっと明るくなった。それでもこの道は懐しい。厭離庵は従来から観覧謝絶で、私は幾度も此所を素通りしたことがある。そこで今回は紫さんを煩わして紹介状を貰い、漸く宿望を達した。書院に通されて、庵主《あんじゆ》さんからお茶を頂いた。中村真一郎にしても私にしても、作法抜きで飲むだけである。眼をやると椿が満開で、何でも有楽《うらく》という種類だそうだ。小ぢんまりと、手入れのよく行き届いた庭には、鳥が来てしきりに鳴いている。「あれはひよ」と庵主さんが言われた。ひよどりのことらしい。扁額に来歴が書かれていて、「紅塵万丈中別有清雅高潔之天地」とあるが、まさにその言葉の通りで、眠くなるような春の昼さがりである。しかし厭離庵が別天地をなしているのは、一般の観覧を断っているせいではないかという気もしないではない。人が来れば風情が損われるのは、例えば直指庵《じきしあん》、数年前には人けもなく竹林の中に静まり返っていたのが、今では拝観料を取ってかえって人の波になった。それぞれに事情はあるとしても、公開しないという見識も必要ではないかと思われる。  厭離庵は藤原定家の嵯峨山荘のあとと言われているが、それには色々の説がある。しかし明月記の承元元年三月九日「私向嵯峨、為見庭樹花也、自栽樹漸長、見其花養志」という記事などを見ると、定家が如何にこの山荘を愛し、そこで休息していたかが窺われる。私たちはこのあと二尊院に行き、裏山にある時雨亭跡という札の立った空地で休んだが、そこからは二尊院の境内の今や満開の白木蓮を見下すことが出来た。鶯もしきりに鳴いていた。考証はともかく、定家が小倉山に近いあたりで王朝の昔を偲んでいたその気持は、私たちにも通うものがあった。  定家は王朝の人ではないが、古典への深い愛情によって源氏や伊勢や三代集などを校勘した。源氏物語はほぼ十一世紀の初頭に書かれたものと思われるし、定家がその註釈書の「奥入《おくいり》」を書いたのは十三世紀の前半で、その間既に二百年以上が経っている。私が王朝文学に直接関係のない定家の遺跡などを訪れたのは、定家の源氏物語への憧憬が、作品そのものの一つの性格を示しているように思われるからである。  憧憬、少し気取って言えば |Sehnsucht《ゼーンズフト》 は、源氏物語の読者たちに共通した要素であろう。最も早い読者の一人、菅原|孝標《たかすえ》の女《むすめ》は子供の頃から物語にあこがれ、「紫のゆかりを見て、続きの見まほしくおぼゆれど、人かたらひなどもえせず、誰もいまだ都馴れぬほどにて、え見つけず、いみじく心もとなく、ゆかしくおぼゆるままに、この源氏の物語一の巻よりして皆見せ給へ、と心の内にいのる」有様である。彼女が宿願を達して全巻を手に入れたのは一〇二一年かと思われるから、源氏物語が書き上げられてからそれほどの歳月は経っていないが、既に熱烈な読者が現れたことになる。更科日記のロマンチスムから定家の実証主義までに二百年を必要としたとしても、定家の源氏研究の底にはやはり憧憬がひそんでいよう。そしてこうしたゼーンズフトは源氏物語そのものの第一主題をなしている。あの長篇の全体の構想は、亡き母に似た藤壺女御への光源氏の思慕に始まる。思慕は愛である前にまず憧憬であり、そのモチイフに従って例えば若紫が登場する。そうした高貴な女性とは別に、中の品に属する女性たちへの若い源氏の愛が芽生えるが、そこにも好奇心だけでは解釈できない憧憬が含まれている。そしてこの物語は、永遠に女性なるものを追求して、多くの型に描き分けたというふうに私は受け取っている。源氏物語絵巻は十二世紀半ば頃の作だが、個性を殺した引目鉤鼻《ひきめかぎはな》の技法のうちに、かえって永遠の女性を感じるのは私ばかりだろうか。そしてこの絵巻もまた、明かに原作に寄せた藤原|隆能《たかよし》の憧憬に基いていると言えるだろう。     三 洛中 [#地付き]見わたせば柳さくらをこきまぜて     [#地付き]  都ぞ春の錦なりける          初日には嵯峨から長駆して藤原氏の氏神である大原野神社に詣でた。せっかく中村真一郎が一緒だったのに、歩きくたびれたらしくてちっとも啓蒙してくれなかったのは残念だった。次の日からは専門家抜きの同行三人である。  京都御所の拝観は四月九日までだというので、やっと間に合せる。紫宸殿の右近の橘はまだ冬囲いのままで、左近の桜は蕾が固かった。たいそうな人出である。等身の人形が飾られて往時の風俗を再現していたり、盆栽などが陳列されたりして、ちょっと学芸会の趣きがあった。  源氏物語は平安京を舞台にしているとはいえ、大部分が貴族の屋敷内で起ることだから、例えば紫宸殿とか清涼殿とかによって王朝の昔を偲ぶことは、確かに勉強にはなる。しかし昼下りの人込みの中で、「花の宴」の盛儀を思い描いたり、朧月夜のアヴァンチュールを想像したりするのは、少しばかり骨である。  六条御息所の姫君は斎宮《いつきのみや》として伊勢に下り、後に冷泉帝に入内して梅壺に住むようになる。秋を好むので秋好《あきこのむ》中宮と呼ばれているが、それは紫の上が春をめでるのと対照をなしている。「野分」の初めに、人々が紫の上の春の花園よりも、秋の花を植えた中宮のお庭の方に心惹かれるようになったことを、「うつろふけしき、世のありさまに似たり」と言っている。こうした春秋《はるあき》の争いは古くからあり、拾遺集の「春はただ花のひとへに咲くばかり物のあはれは秋ぞまされる」が有名だが、「若菜下」にも、夕霧が春の夕暮を推すのに源氏が「末の世にくだれる人」には簡単にきめられることではないと答えている。通例は秋の方が優勢だと言うべきか。  それというのも、せっかくの花の季節なのに、円山公園も平安神宮もしだれ桜がやっと綻びはじめたというくらいで、これでは王朝の春を偲ぶのにふさわしくない。京都の春は賀茂川べりに柳が芽吹き、疎水べりに花片が水に浮ぶのを見ながら、そぞろ歩きするに及んで初めて満喫できるような気がする。名所旧蹟を訪ねないでも、この町には到るところに古い情緒があって、それが懐しい。しかしいくら町歩きをしても、例えば今昔物語の庶民的な世界は、遺蹟を見つけることが難しいだろう。  春と秋との優劣を論じてもしかたがないが、源氏物語は構成の上で、どことなく四季に照応するものがあるような気がする。物語の初めの方は、光源氏も年が若く、また若紫が中心にいるので春。夏は描写としては少いが「須磨明石」のあと、源氏の君が栄達を極めて行く過程。「若菜」からは人生の秋であり、更に薫が主人公となる宇治十帖になると蕭条とした冬の感じである。現代人は大体に於て長篇小説として源氏を読むから、後半の謂わば秋から冬の部分に一層の魅力を感じるようである。  さて私たちは惟光君の運転で洛中を走りまわったが、「都ぞ春の錦」という風情にはついぞお目にかからなかった。結局は下鴨神社に詣でることにした。私は戦争中にわざわざ葵祭を見に行って、その年の祭は時節がら休みだということがあった。それからは不幸にして五月十五日に京都にいたことはない。この祭のことは「葵」の巻に詳しい。私たちは糺《ただす》の森を歩いて往年の盛儀を偲んだ。ついでながらこの神社のおみくじは写真入りの横書き印刷で、独身の惟光君が引いたのは縁談まとまるという吉《きち》でその点はお目出たかったが、おみくじには念入りにプラトンの箴言まで印刷してあった。引合に出されてプラトンも面くらっているだろう。     四 宇治 [#地付き]春ごとに花の盛りはありなめど     [#地付き]  あひ見むことは命なりけり      宇治十帖は源氏物語五十四巻の中でも最もロマネスクな部分であり、それ以前が平安京を中心にした物語であったのに対して、これは山里《やまざと》の物語、つまり別荘小説と呼んでもいいものだ。「同じき山里と言へど、さる方《かた》にて心とまりぬべくのどやかなるもあるを、いと荒《あら》ましき水の音、波の響きに、物忘れうちし、夜などは心とけて夢をだに見るべき程もなげに、すごく吹きはらひたり。」そのような寂しいところに、世に入れられぬ老いた八《はち》の宮《みや》が二人の姫君と共に暮している。そこに仏の道を慕う薫《かおる》の中将が訪ねて行く。更に薫の競争相手である匂宮《におうみや》と、姫君たちの異母妹である浮舟《うきふね》とが登場する。二人の男と三人姉妹との心理的葛藤は複雑な綾を織りなすが、その間に宇治川の波の音は、絶えず読者の耳に不吉に響いているのである。  薫の異母兄である夕霧の山荘は、今の平等院のあたりと推測されている。平等院はもと源融の山荘で道長が譲り受け、その子頼通がこれを寺にした。鳳凰堂は一〇五三年の建立《こんりゆう》で源氏物語の制作よりは遅いが、今もそのまま残って王朝の阿弥陀信仰のあとをとどめている。当時の平等院は、その他に多くの伽藍を擁して、宇治川の南岸を広く占めていたことだろう。  私たちが訪れた時は冷たいものがぽつぽつと降り始めていた。堤の桜もほんの一分から二分咲きで、「はるばると霞み渡れる空に、散る桜あれば今は開けそむるなど、色々見わたさるる」(「椎本《しいがもと》」)というわけにはいかない。しかしこのお天気で見物客が少いのは有難かった。阿字池に影を映している鳳凰堂の姿は、心にくいばかりのシンメートリである。堂内はひっそりして、阿弥陀如来坐像の慈悲深いお顔が仄暗いなかに仰ぎ見られた。そのあと私たちは縁先に腰を下して、池の表に雨足《あまあし》が波紋をえがくのを眺めていた。遠足の子供たちが向う岸に列をなしてお喋りをしていたが、それさえも静かである。  それから宇治橋を戻って宇治上神社へ詣でた。宇治十帖の八の宮の山荘は夕霧の御領地の対岸にあり、管絃の響きが川を隔てて八の宮の御殿にも届いたと「椎本」にもあるほどだから、恐らく宇治上神社のあたりと見てもいいだろう。寝殿ふうの拝殿のうしろに廻って石段を昇ると、三つある本殿が覆屋《おおいや》のうちに収められて、古い神社建築を今日まで伝えている。  この床しい神社はひっそりと境内の戸を鎖していて、紫さんが社務所まで様子を見に行ったところ、どうぞ入りなさいということで案内の坊さんも出て来ない。そこで私たち三人はのんびりと本殿や拝殿を拝んだ。実はだいぶくたびれ込んで、春雨に濡れた石だたみや苔などをぼんやりと眺めていた。生憎と川の流れは穏かで、波音も聞えず管絃の響きもないが、宇治の姉妹たちの寂しい心もちを想像することは出来た。浄土にあこがれた薫をはじめ、死ぬことさえ出来なかった浮舟まで、宇治の人々には末法の暗い空気が漂っているが、救われたような救われないようなあの結末は、阿弥陀信仰を抜きにしては考えられないものだろう。王朝の文学というと何やら華かな感じがするとしても、多くの庶民たちは今昔物語に見られるような暮しかたをしていたのだろうし、大宮人たちも消しがたい不安を心の底に隠し持っていただろう。  惟光君が腕を撫してハンドルを握り、私たちはまた烈しく降り出した雨を衝いて宇治川をあとにした。桜の花盛りには幾日か早かったけれども、桜ばかりの春ではないなどと負け惜しみを言いながら。 [#地付き](昭和四十五年五月)     閑中多忙      信濃追分にて  信濃追分にある山荘を玩艸亭と名づけて、夏休みはもとより暇さえあれば出掛けることにしていたのが、細君が健康を害して、ここ何年も山荘をしめっぱなしにしていた。それが今年は、どうやら細君が少しは動けるようになったので、おっかなびっくり、七月の下旬に当地にやって来た。病気は筋肉リウマチで、クーラーは大敵である。東京の酷暑に団扇《うちわ》で対抗しなければならない。それくらいならいっそ涼しいところで寝ている方がましだろうという計算である。お手伝さんがいなくなってからは亭主が裏方《うらかた》をつとめているが、裏方にしても働くのは涼しい場所の方が楽に違いない。友人の水門《みなと》君の運転する車で、はるばる連れて来られた。  久しぶりだから家じゅうに鼠害、虫害、水害のあとがあるのも無理はない。まるで引越騒ぎで、某大学助教授の身分ある水門君は半ズボン姿も勇ましく指揮官になり、親戚の大学生高校生その他動員できるかぎりの部隊を招集して、いちいち号令を掛ける。例えばお勝手の流しの抽出を開けば、生れたての小鼠が中でチュウチュウいっている。細君が黄色い声を張り上げ、水門君が沈着に命令を下し、部隊が始末する。それから亭主がうしろから覗いて、どうしてはいったんだろうと首をひねる。万事そういった調子である。  来てみて一番驚いたのは、むやみと樹木が育ったことだ。敷地の囲いに落葉松《からまつ》を植えたのが、背較べをして伸びてしまった。庭の中にある木は言うも更である。十年あまり前に背の丈ほどの朴《ほお》の木を移植して、毎年幹を撫でて大きくなれと励ましていたが、四五年見ないうちにぐんぐん伸びて、まわりの白樺に追いつきそうな勢い、この分なら意外に早く花が見られるかもしれない。その白樺の方は二階の屋根よりもひときわ高くなっている。その他の灌木類も密生して、いざ机に向って勉強しようにも昼なお電燈を点けなければならない。これでは健康上も宜しくないから、清水屋さんに頼んで落葉松を八本ばかり伐採してもらうことにした。  清水屋さんは土地の人で、もうだいぶのお年だが植木もいじれば草も刈る。昔からの馴染だから、ただ職人に来てもらったのとは違う。細君にお説教などを垂れながら、こちらの註文に応じて木を切って行く。細君はその材料で物干台をつくり、壊れたあけび棚を修理してもらうつもりでいるし、私は猿の腰掛ほどに株を残してくれなどと言う。清水屋さんが仕事をしている間は、とても閉じこもって勉強などというわけにはいかない。清水屋さんがするすると木登りをしてくるみの中枝を払ったり、ひょろ長い落葉松を思い通りの方角に倒したり、その方角がちょっとそれてはらはらしたりするのは、なかなかの見ものである。それから倒れた木を運び、枝を伐り、皮を剥ぎ、長さを揃え、物干台ができるところまで、見物役もこれで忙しい。  細君が元気な頃に、小諸《こもろ》の在から桃を売りに来る少年がいて、その桃があまりおいしかったので畑のなかに細君が種子を蒔いた。この辺は寒冷地でとても実はならないだろうが、せめて花を見たいという気持である。その桃が立派な木になって、手入をしなかったから四方八方に枝を伸して畑の中央にのさばっている。畑といっても今では草ぼうぼうだが、ついでだから桃の木も切ってもらうことにした。ところが清水屋さんが済まなさそうな顔をして、葉のついた枝を数本持って来た。見ればそこに小粒ながら実が四つほどなっていた。あとの祭だから、その晩はせめて桃湯を焚いてはいった。  樹木繁茂して野鳥がふえたのは、また一得である。朝は四時半ごろからひとしきり、次に七時頃、十時頃、夕刻と、惜しみなく鳴く。黒つぐみ、山鶯、いかる、日雀《ひがら》、こるり、聴きわけられるものだけでも十種類は越す。どうもすももの老木に巣があるらしく、黒つぐみのお喋りはほんの耳のそばである。「キイコ・キイコ・ピヨ・ピヨ・オ出デ・オ出デ・此所・此所」と呼んでいる。  細君がやたらに働くから、大丈夫か、すこし寝ろ、などと命令しながら監督する。忙しくて食事の支度までまわらないと、水門君の運転で表へ行く。この頃は国道十八号線に沿って、ドライヴインが文字通り街路樹のように林立しているから、外食にはこと欠かない。この水門君は御代田の貸別荘に自適していながら、これが独身最後の夏と称して、いつも家に来ては可愛い婚約者のおのろけを述べる。決して私が運転手あつかいしているわけではない。  実を言うと私は、長年かかって雑誌に連載している長篇を、ここで一息に仕上げようと計画しているのだが、朝は鳥の声で意外に早起き、朝飯のあと新聞や郵便を見ているうちに昼になり、たちまち昼寝、風呂焚は亭主のつとめで、そのあと夕食、同席の水門君のお喋りを聞いているとたちまち眠くなる、——こういう日常で、その間に庭師や大工の仕事を見物し、細君を監督し、客をあしらい、と来れば暇のないことは自明の理である。二週間経ったがまだ十二枚しか書けてないから、行末を考えると空恐ろしい気がする。しかし東京を逃げ出せただけでもありがたい話だから、編輯者の念仏《こごと》には馬の耳をもってすることにしよう。 [#地付き](昭和四十五年八月五日記)     古書漫筆  私は人並に本が好きだが、この頃は古本屋へ出掛けることが殆ど稀になった。古本屋には一種の懐しい感じがあって、あの薄暗くて黴くさい雰囲気、上目遣いにじろりと客を睨む老眼鏡を掛けたおやじ、ほしい本を見つけた時の気の遠くなるような気持、そこに何とも言えない味があった。しかしこれは昔の話で、そんな古めかしい店は次第に減って来ただろう。どの店も明るく清潔で、主人も若返り、気が遠くなるのは発見の悦びによってではなく値段の高さによってである。少しまけろよ、まかりません、と押し問答をすることも、あまりありそうにない。  古本屋へ通う客には二種類あって、一つは必要なものを探して歩く客、もう一つは漫然と散歩をしながら、気に入ったのがあれば買ってもいいという客である。私なんかは後者の方だから、なるべくなら店の主人と顔馴染で、お茶の一杯もふるまわれて四方山話などをしていたい。そういう店を残念ながらあまり知らないから、それで足が遠のくということもある。  古本屋へ出掛けない理由は、持前の出無精が先立つことは勿論だが、一つには書物の数がむやみと多すぎて、めぼしいものがなかなか見つからない、つまりはくたびれ儲けであること、高い本は初めから高いにきまっていて、掘り出しの愉しみがありそうにないこと、などである。もっともせっせと通わない以上掘り出せないのは当り前だと言われれば、一言もない。それにしてもこんなに書物の数が多いのなら、いっそ吟味した少数の本だけを置くような古本屋もあっていいだろう。渋谷宮益坂の上にある中村書店は、亡くなった中村三千夫君のやっていた店で、彼は私の詩集を出そうとしてくれた奇特な人物だった。その話はうまく行かなかったが、中村君の店は近代現代の詩集だけを主に集めていて、値段も妥当だし、何よりも筋が通っていて、私は彼の店に遊びに行くのを愉しみにしていた。私がその店で手に入れた一番貴重な本は、室生犀星あての献辞のついた萩原朔太郎の「定本青猫」である。しかも犀星が自分でその背に「青猫」と墨で書いている。何でも値をつけて半日ばかり店に出してから、惜しくなって彼が引込めたところに、私が行き合せた。いくら高くても買おうと息まいたら、あっさり、ただであげましょうと言ってくれた。彼のつけた値段を私が当ててみることになり、八千円かなと言ったらそれがぴたりと当ったのだから、随分と本の安かった頃の話である。ついでながらこの中村君は気前のいい人で、私に「月に吠える」の初版本までくれると約束した。無削除版が取ってあるが、表紙がきたないのできれいな表紙の本を手に入れたら、表紙を入れ替えてからあげると言って、愉しみに待っているうちに彼は不意に亡くなり、話はそれぎりになってしまった。今でも彼の人のよさそうな笑顔が、眼の前に浮ぶようである。  というように近頃は古本屋へ行かない代りに、もっぱら古書目録の類を見て愉しむことにしている。百貨店などで開催される古書店合同の即売展カタログ、入札目録、それから個々の店の案内、月刊の古書通信、そういったものがけっこう送られて来る。私はその魅力にはどうも抵抗できないから、封を切るなり、どんな忙しい時でもついつい頁をめくり、暇があれば鉛筆片手に一つずつしるしをつけて行く。しかし実際に註文をすることは、これまた稀である。つまりはカタログを見ることそれ自体を、純粋に愉しむということになる。その理由はいろいろあるが、一つにはほしい本は高すぎる、二つには註文や送金などの手続きが面倒くさい、三つには買った本の占める場所を考える。ただの一冊といえども、書物のふえることは狭い家にとって脅威と言わなければならない。以上の三つの関門を通って初めて註文するのだから、熟慮断行の時までに売れていたということもしばしばある。  古書展のカタログは立派になって行く一方で、豪華版と呼んでもいいようだ。本の装幀などが別刷のアート紙に写真版で出ているから、勉強にもなる。但し明治百年で大騒ぎをしていた頃には、まだ本が中心だったが、この頃は本が減って書画に移り、それも文士の色紙とか書翰とかが並ぶようになった。写真版を見ても書画の類が圧倒的に多く、本の方はきわめて尠い。これではまるで骨董展で、古書展とは言いにくいだろう。私は文士の下手な書を商売道具に使うのは商魂の衰えたものだと思うし、況や内々の手紙などを売りに出すのは我ひと共に恥だと考える。どこに出しても恥ずかしくないような字を書き手紙を書ける文士は、そんなに沢山はいない筈である。  というようなことをその一端として、目録を見ながら勝手な感想を思いつく。この本は以前はもっと安かった筈だとか、この値で買う馬鹿がいるだろうかとか、これは掘り出し物だとか、要するに頁を繰りながら頭を活溌に働かせているのが面白いので、実際に買う買わないは二の次である。我ながら枯淡の境地に入ったと言わざるを得ない。しかし鉛筆のしるしはけっこうついているのだから、慾がないわけではない。ではどんな本を私が狙っているのか、めったに洩らせば古本の値が一層あがるだろうから、そこのところは秘密である。 [#地付き](昭和四十六年十一月)     千里浜奇談  能登の西海岸に千里浜《ちりはま》というところがある。と言っても格別取り立てて言うほどの場所ではない。大伴家持の歌碑があるらしいが、残念ながら私は訪ねたことはない。歌碑と言えば、折口信夫の歌碑と墓とが千里浜の少し先の能登一の宮にあって、これはなかなか床しいものだが、その話は以前に書いたからここには触れない。  千里浜が能登のガイドブックに載っているのは、ここの砂浜が砂の質が固くて、自動車が渚に沿って道なきところを走ることが出来る、という点である。新しいガイドブックには渚ドライブウエイという名前で出ていた。有料道路が次から次に生れて、そこに名前をつけるのは近頃のはやりで、一般に言って碌な名前はつかないが、中でも長野県のビーナスラインと称するような悪名天下に轟くものもある。ビーナスでヴィーナスではないから、ローマの女神とは関係がないのかもしれないが、めったに似た名前を借りられた女神が、怒って、日本の自然に腹癒せをしているのではないかと疑いたくもなるが、そういうのに較べればこの渚ドライヴウエイには何の罪もないし、だいいち有料でもなく、道路でもない。長さ八キロ、海を見ながら砂の上を走るだけのことである。もっとも私は夏のことは知らないが、海水浴で甲羅を乾している人たちの頭や足を掠めて、ひっきりなしに車が通るのでは公害と言えるかもしれない。  私が能登へ行ったのはオリンピックが東京で開かれた年の秋で、その同じ頃この千里浜を車で走って爽快な感じを得た。その旅行の間に富来《とぎ》というところにある湖月館という宿屋を知ったから、三年前の春さき、中野重治さんや伊藤信吉さんをその宿屋へ案内したが、その時は急行バスで直行したので千里浜で道をそれるわけにはいかなかった。幹線のルートからちょっと外れるとこの海岸なのだから、車なら走らなければ損といったものである。  この十月の末に金沢に行く機会があり、細君が室生犀星の野田山墓地に参りたいと殊勝なことを言うので連れて行った。因に室生さんのこのお墓は眺めもよく設計もよく、室生さんを偲ぶにふさわしい。金沢での私の用事も終って、能登の方へ行ってみることにし、まず富来を目指して金沢を出発した。ところがその日は野田山墓地へ詣でたのと同じ日だったが、あれやこれやで時間を食って、小型のタクシイで金沢市中を離れたのが午後四時である。朝から時々しぐれが町並の瓦を濡らしていたが、市内を出はずれると東の山の端に見事な虹がかかった。如何にも幸先のよさそうな虹である。  寄道をするには時刻が遅くなったから、せめて千里浜を走ってくれと運転手に命じ、初めての細君に予備知識を授けながら、さて海岸に乗り入れてみれば、日本海の彼方に今しも日が没しようという頃おいである。暫く走ってから、運転手さん、ちょっと下してくれませんか、と頼んで車の外に出てみると、海からはうそ寒い風が吹きつけ、波は一面にしぶき、日ははや落ち、凄惨な感じに打たれた。これは風流どころじゃない、さあ早く行ってくれ給え、と催促したが、何といつのまにか自動車の車輪が砂の中にめり込んでいて、てこでも動かない。  運転手は砂浜を走りまわって、なるべく大きな木切れを集めて来ると、ジャッキで車体を持ち上げて車輪の底に敷き込もうとしている。こんな筈ではなかった、と恐る恐る細君の顔を見たが、その心細そうな顔もよくは見えぬほど次第に日はとっぷりと暮れて、しぐれが横なぐりに吹きつけて来る。ヘッドライトを点けた車が、時たま知らん顔で側を駆け抜けて行く。要するに車を止めて外へ出たのが悪かったらしいが、今さらどうなるものでもない。  沈着な運転手が遂に準備を整え、さて我々に向って、済みませんがあとから押してくれませんか、と頼んだ。宜しい。そこで夫婦協力、砂の中に靴をめり込ませて後ろから一押し二押しすると、あら不思議や、車がするすると動き出したという話である。  もっとも風邪を引き込んで、次の日は一日じゅう宿屋で寝ていた。 [#地付き](昭和四十六年十一月)     映画漫筆  この頃は映画はすっかり下火になって、正月だから映画を見に行こうなどという習慣もなくなったようである。まあ娯楽はたくさんあり、しかも世は泰平でレジャーと称して車に乗ってぞろぞろ遠出をする時代だから、暗いところにじっと坐って我慢するようなのは物好きに限っているのかもしれない。  私は昔から、というより昔は、映画が好きでテレビなどには目もくれない主義だったが、いつのまにか堕落して、はて今年は何本映画を見たかしらんと、暮になると指折り数える始末である。そのくせテレビで見るものといっては映画に限られていて、これは前に見たことがある、シネマスコープをこんなにちょんぎるとはひどいものだ、などとぼやきながら、同じ古物をけっこう二度も三度も見ているのだからお話にならない。映画がはやらなくなったのには、映画界の方にも理由があるだろうが、私個人にも多少の理由はある。つまりみこしを上げて映画館へ行くのがおっくうになったということだ。これが音楽会や展覧会なら、三度に一度はいそいそと出掛けるのだから、要するに映画に魅力が乏しくなったということだろうか。  私の子供の頃を思い出すと、あの頃の子供は正月の行事として映画(当時の言葉で言えば活動、または活動写真である)に連れて行ってもらうのを、愉しみの一つにしていたような気がする。大人だってけっこう愉しみにしていたのではないだろうか。正月はニコニコ大会と称して、映画館は競って小物の喜劇映画を一挙に幾本も上映したのだし、チャップリンやロイドの新作と言えば、必ず正月興行ときまっていたようだ。縁起をかついでの初笑いという風習が、映画の方にまで入って来たのだろうが、私はこういうところにも日本的伝統としての季節感が生きていたように思う。初笑いにニコニコ大会を見に行くことは、春の野辺に草を摘み、名月の晩にお団子をそなえるのと同じく、一種の風流な行事ではなかったろうか。私はニコニコ大会が俳句の季語として採用されていたかどうかを知らないから、これは少し大袈裟かもしれない。しかし不断は映画なんか見向きもしない忙しい人たちが、正月ともなれば映画でも見ようという気を起したことは、充分に考えられる。それは世の中がのんびりしていたということかもしれない。  私は何も懐旧談をするつもりはない。ただ私たちの年頃、つまり曲りなりにもサイレント映画からトーキーへの変化を知っている人間は、必ずや学生時代に夢中になって映画を見たものだし、その意味で我々の教養の一半を映画に負っていたと言うことも出来た。そこで今から十年ぐらい前に、中村真一郎と堀田善衛と私という、いずれも同じ年に生れた三人が、一つ共作で映画の台本を書きませんかと誘われて、忽ち承諾するということが起った。  あれは「ゴジラ」という初代怪獣映画が大いに注目を浴びたあとだったから、何ぞ新式の怪獣を発明してもらいたいというので、我々三人が目をつけられたものだろう。一人では独走する恐れがあり、三人なら安全と計算したものかどうか。東京映画の椎野英之君という若いプロデューサーのおだてに乗って、三人雁首をそろえて、思いつくままにあれこれと奇妙な怪獣を空想したあげく、遂に「モスラ」をでっちあげた。「モス」は英語で蛾のことで「ラ」は接尾辞だから、ゴリラとクジラの合の子よりはやや学問的だろうと自惚れた。ギリシャ神話に「キマイラ」という怪獣がいて、頭はライオン、胴体は山羊、尾は大蛇、というので、後世ありもしない幻想という意味に使われるが、我々の「モスラ」も、頭は中村、胴体は私、翼は堀田、とでも言うべき摩訶不思議な存在だったのである。  映画の台本といったところで、三人が口から出まかせのお喋りをして、それをシナリオライターが首尾一貫させたものだが、これでは原作とは言いにくいというので、改めて三人が怪獣小説(とでも言う他はない変てこなもの)を連作した。頭は中村の作で、これは恋愛心理小説、胴体は私で、これは南方海上の一孤島に於ける古代神話の研究、最後の部分が堀田の社会派的諷刺小説で群集が「ヤンキイ、ゴーホーム」と叫ぶのだから、とにかく奇妙きてれつな代物だった。  映画の方はなかなかの大入りで、どうかもう二三匹発明してもらいたいと要望されたが、我々の智慧も「モスラ」止りで、あとはうやむやになってしまった。そのうちに世はあげて怪獣ばやり、幼稚園の子供をして、何だモスラか、もう古いや、と嘲笑される破目になった。  しかし優秀な映画がテレビで放映されることは今日の習いで、我々の「モスラ」も正月というと、毎年必ずテレビでお目にかかれる。元旦から三ヶ日くらいの間に、懐しの「モスラ」に再会するのは、ちょっと子供の頃の正月に、ニコニコ大会に出掛けて行ったのと同じ趣きがある。しかし「モスラ」が古典になって、我々三人もそれだけ年を取ったということになるのなら、にこにこしてばかりもいられない。 [#地付き](昭和四十六年十二月)     伊豆二題      1  正月に東京を逃げ出した話である。  暮から正月にかけては、私のような無愛想な人間でも、年賀の客を断るわけにはいかない。健康上の理由でやむなく禁酒禁煙の看板を出している以上、目の前で客が酒を飲んでくだを巻くのを拱手傍観しているのは癪である。それに細君が、細君は長らく病気続きだったのがこのところよくなって来て、どこぞ行きたいと言う。たまにはお勝手を休ませてくれてもいいじゃないの、と吐かす。お手伝さんもいないことだし、恩を着せるのも悪くないと思って、安くて静かで暖かいところを見つけたら、連れて行ってやると約束した。  思い出すと前にも正月を逃げ出したことはある。信濃追分がすっかり気に入って、冬休みというと出掛けて行った。自分の別荘だから安くて静かなことは間違いないが、何分にも寒すぎる。万物凍り、ビールや醤油まで凍る。細君が身体を壊したのも、この冬越しのせいではなかったかと今にして思い当るくらいだから、そっちの方角は困る、などと思案しているうちに、電話ばかり掛けているようだった細君が、きめたわよと言って来た。場所は南伊豆で、旧家の離れだという。つまり近頃はやりの民宿かと馬鹿にしたら、そんなのじゃないと勢いよく説明を始めた。沼津で中学の先生をしているK君というのが細君のイトコだかハトコだかに当り、そのK君夫妻が南伊豆の毛倉野《けぐらの》とやらに親戚があってちょくちょく遊びに行く話は前から聞いていたが、何でもその親戚のまたの親戚とかいう由緒ある旧家なのだそうだ。とすると、君の縁つづきになるんじゃないのかと細君をからかったが、細君は正月の支度をしないですむというのでにこにこしている。  南伊豆町の上小野《かみおの》というのが行先である。下田まで電車で行き、そこで行列にくっついてタクシイの順番を待った。不便なところらしいから万一の用心にと、細君がしこたま食糧を仕入れて、それを私が両手に持たされているから、タクシイに乗ったらどっと疲れが出た。何でも永田さんというその旧家は、息子さんが下賀茂で宿屋を営み、老夫人が娘さんと留守を守っているとかで、その宿屋に行きさえすれば道順が分る手筈になっていたが、聞いてみると、タクシイでそこからまだ二十分はかかろうという山の奥である。雨はしょぼ降る日は暮れるで、だいぶ心細くなった。  時々車をとめて道を教わりながら、やっとのことで訪ね当てたが、お化けの出そうなだだっ広い屋敷の中に、お年寄が一人、我々の着くのを待ちかねていた。さっそくの暖かい夕食のもてなしで生き返ったが、しんとして寂しいところである。大きな暗い部屋を幾つも通り抜け、長い長い渡り廊下を通って離れに行き、細君と顔を見合せた。  あくる日になって、おばあさんと一緒に炬燵にはいって、すっかり仲よしになった。おばあさんという年ではないが、苦労のあとは顔に見えている。何でも昔は小作が三百人はいたというのだから、このあたりきっての名門だったに違いない。今は自分で田をつくるとかで、お手製の米はたいへんうまかった。  とにかく暖かい土地で、まだ紅葉《もみじ》が散らずに残っている。家の中にくすぶっているより、つい散歩に出たくなる陽気である。コジュケイやモズがしきりに啼いている山道を少しばかり登って行くと、何とフキのトウが出ているのには驚いた。タンポポやスミレなども咲いているから、もう春と間違えたのかもしれない。烏瓜の真赤な実が草や木の間に幾つもぶら下っていた。  近所の人たちが正月の年始に来て、四方山話になる。暮に猪が出て、その猪と格闘したあげく目下入院中の犠牲者がいるという。その人は片目が見えないから、猪の来るのに気がつかなかったのだろうという説と、かねて猪を取ったら御馳走すると近所の人に約束していた手前、勇を鼓して立ち向ったのだろうと、二説ある。何しろ相手が手負いの猪で、突きとばされて泡をくい、田圃に顔をつつ込んで死んだ振りをしたが、猪はなおもつついてみてから、不思議な奴だというように振り返り振り返り逃げて行った。そこで助けを呼んで、血まみれになって病院に担ぎ込まれた、というのが本人の告白だそうだ。この辺は天城《あまぎ》の麓だから猪も出るだろうが、それにしてはちっとも怖くない。  猪よりもたちの悪いのはハクビシンで、夜になると出没し、蜜柑の木を荒してまわり、熟したうまそうな奴を選んで、上手に中身だけくり抜いて食べる。罠を仕掛けてもなかなかつかまらない。この辺にはたくさんいて、車のヘッドライトに目が眩んで轢かれることもあるそうだが、残念ながらお目にかかれなかった。帰ってから図鑑を見たら、豆狸のような、可愛らしい顔をしていた。  炬燵にはいって勉強するにはすべてがのんびりしているから、どこぞへ出掛けたくなる。K君夫妻が車で現れて、彼等の根拠地である毛倉野に案内された。何でもそこの部落に借家を見つけて、月四千円で別荘に借りたから、これから行って泊るのだそうだ。なるほど車の中には寝具から食糧まで積み込んであるし、あとは途中で七輪を買って行けばいいなどと言っている。その借家というのが意外に立派な建物で、あたりは上小野に劣らぬ人家まばらな別天地である。彼等が大家さんと借家を調べている間に、我々夫婦は裏の小山の裾でフキのトウなどを摘んでいたが、太い針金を二本ほど引いた柵がそこをめぐっているので、後から聞いてみたら、電流を通して猪を防ぐのだと分った。どうもこの辺は、人間よりは猪の方が人口が多いのじゃないかと思う。  というわけで、我々の行った先は、天然の上でも人情の上でも、申し分なく暖かだった。おばあさんの親戚の人の運転で、下田港の先を爪木崎《つめきざき》まで野水仙を見に行ったし、K君の運転で子浦を訪ね、そこで旧知の遊覧船の船長の関さんに案内してもらって、波勝《はがち》崎まで野性の猿を見に行ったりした。この関さんの家のすぐ近くにK君の親戚があって、やあ今日はなどと言っているのを見ると、何だか南伊豆というのは、糸をたぐればみんな縁つづきと言ったのがますます本当らしくなって来た。  こうしてのんびり正月をやり過して東京へ帰って来たが、往路で肩を凝らせた重たい荷物の中には、原稿用紙から参考書まで詰め込んであったのに、手つかずで持ち帰る破目になった。しかしこれだけ世の中が忙しくなっても、南伊豆にまだ別天地ありとは有難い。むかし高等学校の生徒だった頃に、高橋健人という理科の友人と三日がかりで伊豆を踏破したことがあるが、その男から年賀状が来ていて、「暮に松崎に泊り雲見《くもみ》に行った。三十年前の思い出がてひどく破壊されたまま帰って来た」といまいましげに書いてあった。昔の面影が消えてなくなるのは何処《いずこ》も同じ、すべからく新天地を開拓せよと旧友に教えてやらなければならない。      2  その高橋健人と一緒に旅行した三十年前の話である。  一高弓術部は毎年の春休みに伊豆西海岸の戸田《へだ》に合宿する習いだったが、合宿が終ったあとで伊豆を徒歩で一周しようという大計画を、彼が起したか、私が起したか、とにかく意見が一致した。合宿がすむと普通は土肥《とい》を経て湯ヶ島に一泊し、そこで解散ときまっていたが、先輩の中には土肥で別れて松崎の方へ歩いて行った連中もいたから、その顰《ひそ》みに倣《なら》ったのかもしれない。参謀本部の五万分の一の地図を頼りに、リュックの中に身の廻り品を入れ、白線の帽子に黒いマント、編上靴にゲートルといういでたちで、土肥で他の連中と手を振って別れた。  地図を頼りにと言っても、海岸に沿ってバス道路が走っているから道に迷う恐れはないし、相棒とは毎日顔を合せている間柄だから今さら話をするたねもない。要するに黙ってせっせと歩くだけ。松崎までは時々振り返って富士を見るくらいで、格別のこともなかった。  松崎を過ぎると地図が必要になる。予定の宿泊地は雲見だが、そこまでは途中に部落が二つあるだけで、道といっても人がやっと擦れ違える程度。それがいつしか登りになって林の間を抜けて行くと、たちまち河音が聞えて深い谷川にかかる橋に出た。その橋が丸太を一本渡しただけのもので、見下すやぞっと鳥肌が立った。  どうする? 渡るかい?  弱ったな。とんだところに出ちまったな。  二人してその場にしゃがみ込んで思案した。夕暮が近づいて、地図で見ればもう少しのところだから、今さら松崎に引返すのも業腹《ごうはら》である。さりとて蛮勇なくしてこの丸太橋を渡ることは出来ない。当時の一高生は何となくバンカラの印象を与えやすいが、私にしても高橋にしても、決して勇ましい方ではなかった。高橋なんかいつも妹から、お兄ちゃんしっかりしなさい、とけしかけられていた位だ。  結局は二人とも四つん這いになって、おっかなびっくり丸太を渡ったが、先でも後でも友人に醜態を見られるのだから相手を嗤うわけにはいかない。橋の途中で見下した谷川のせせらぎの美しさと言ったら。  無事に雲見に着き、一軒しかない宿屋に泊ったが、小学校の先生が下宿しているとかいう商人宿で、海が荒れたというので貝ばかり食わされた。雲見はその後温泉が出たそうだがその頃はひっそり閑とした漁師村で、こんなところの小学校の先生を暫くでも勤めてみたいものだという感慨を私に起させた。  次の日はまたてくてく歩いて、石廊崎《いろうさき》を見物したあとで下田まで行くつもりで、途中日が暮れたので行き当りばったりの宿屋に泊った。ここも御馳走はさっぱりで、波音ばかりが終夜とどろいている寂しい宿屋だった。  その翌日は下田を経て街道を天城の方へ向った。東海岸沿いに行くよりその方が面白そうだと判断したのだが、「伊豆の踊子」の逆コースだから多少の甘い期待があったのかもしれない。しかし天城トンネルのあたりから雨が降り始め、修善寺まで来たらずぶ濡れになって、情緒らしいものはついぞ味わえなかった。二人で相談してそこからバスに乗り、目的地の伊東に向った。伊東の宿屋では高橋の兄さんが病後の静養中だと知っていて、初めからちょっぴりたかるつもりだったことは勿論である。  つまりこれが三十年前の私たちの伊豆一周だが、足を棒にして結局は何をもうけたのだろう。後になってからでは二度と手に入れることの出来ない何ものか、とでも言えば当るだろうか。 [#地付き](昭和四十七年一月、五月)     昭和二十二年頃  不意に昔の詩のコピイが送られて来て、その詩の載っていた雑誌の復刻版を出すから思い出を書くようにと求められた。(註)詩は「夜」という総題を持つ七篇のソネットで、雑誌は昭和二十二年十一月号の「花」である。珍しいものを見せられてすぐさま承諾の返事を出したが、どうも我ながら慌て者の気味があって、いざ原稿を書く段になってたじろいだ。そのわけは、肝心の「花」という雑誌の記憶が、いくら首を捻ってもさっぱり甦って来ない、従って思い出を書こうにも書きようがないのである。私はもともと記憶力に乏しい方だが、それでもせめてその雑誌を丸ごと見るとか、目次面だけでも見るとかすれば、少しは思い出さないものでもあるまい。残念ながら手許にあるのが僅か四頁分のコピイで、それが自分の詩と来ては、その四頁から雑誌の全体を推量することなんか出来る筈もない。このようなことになったのも、つまりその年その頃の私の事情に基いている。(註。後に聞けば、「新生」の復刻だけで「花」の復刻はないのだそうである。これもどうやら早合点の気味があった。)  その年、昭和二十二年は敗戦後二年目だが、私はその前の年の四月から、北海道帯広市の帯広中学校の英語教師を勤めていた。何も好きこのんで都落ちをしたわけではなく、東京にはくちがなかったまでのことである。憮然として毎日学校に通うかたわら、せっせと原稿を書いてはそれを東京にいる加藤周一や中村真一郎に送りつけた。彼等が適当に原稿を捌いてくれたが、多くは「近代文学」や「世代」のような同人雑誌を相手としていた。(しかし同人雑誌とは言っても、きちんと原稿料を支払ってくれたことを書き洩らすわけにはいかない。「世代」には加藤中村と私との三人が「カメラアイズ」という欄に毎号執筆し、これらのエッセイは後に「1946文学的考察」という本に集められたが、雑誌から毎月二百円の原稿料を送って来たのでそれがたいへん有難かった。)私が個人的に知っていた雑誌は、帯広で出ていた同人雑誌「凍原」改め「北海文学」と、京都で長江道太郎氏が主宰していた「詩人」ぐらいのものである。  昭和二十一年から二十二年にかけての冬の間、私は戦争中の病気が再発して、学校を休んで自宅療養をしていた。帯広の冬は恐るべき寒さで、私は前途暗澹たる気持だったが、それでも長江氏にすすめられた書き下しの評論を書きあげ(「ボードレールの世界」二十二年十月矢代書店刊)、その他にも春になって、「文学的考察」のための書き下しの追加原稿や、「詩人」のためのエッセイ「純粋詩の系譜」や、小説「めたもるふおおず」や、エッセイ「アヴァンギャルドの精神」などを次々に書いた。小説は四月十二日中村真一郎に送って彼が「綜合文化」に持ち込み、エッセイは五月二日加藤周一に送って彼が「人間」に持ち込んだ。更に当時の手控えを見ると、書きかけの長篇「風土」の三章四章を五月に清書し直したりしている。そしてソネット集「夜」の原稿を、六月十六日加藤周一に郵便で送り、その二日後の六月十八日に私は帯広療養所に再入所した。(そこには既に二年ほど前の春さきに入ったことがあった。)つまりこの昭和二十二年の春、私は物に憑かれたように仕事を続け、身辺を整理し、そして最も大事な作品である詩の原稿を最後に加藤に托したものである。  私は戦争中に友人たちと定型押韻詩を試みていて、それらは次の年に「マチネ・ポエチック詩集」の題名のもとに出版されることになるが、私が書いていた定型詩は僅かに十一篇にすぎず、うち七篇はこの「夜」に属する。東京の友人たちが大いにマチネの詩を宣伝しようとしたものの、私には発表すべき作品数が不足していて大いに困った。というのは「夜」の七篇を別々に発表することはどうにも気が進まなかったからである。これら七篇は私にとって最も自信のある、また最も愛着のある作品で、受け取った加藤周一は、彼の考えた最も有力な雑誌である「花」にそれを持ち込んだものであろう。  さて私は帯広療養所に入り、一月ぐらいはそこにいただろうか。控えがないからそのあとの日附はよく分らないが、療養所の医者から、あなたの病気は胸廓成形手術をしない限り三年とは保証しない、それに北海道には手術の出来る病院はないから東京へ行かなければ駄目だと申し渡されて、早々に退所した。私は清瀬村の東京療養所にいた友人と連絡を取った末、心細い気持を抱いて十月頃に上京し、直ちに東京療養所に入った。「河」という私の小説には、九月帯広—十月東京と註してあるから、遺書のつもりで書いたものだろう。そしてその月だったか次の月だったかに第一回の手術を受けたのだから、まさに「花」十一月号の発行とほぼ同じ時期である。それが私にとっての最悪の時期である以上、雑誌の記憶が怪しいとしてもいたしかたあるまい。当時の手控えにはこの作品で原稿料を貰ったことが記載されていないが、これもどさくさに紛れて書き落したのだろうから、「花」が原稿料を出さなかったわけでも、加藤が着服したわけでもないだろう。私は無名の新人の詩七篇を一挙に掲載してくれたことで、この雑誌を今でも徳としていることを申し添えたい。 [#地付き](昭和四十八年一月)     夢のように  昨年の五月に私は胃を悪くして半分ばかり死にかけた。この間も、今日あたりは一周忌のなりそこないだと冗談を言った位である。それが何とか取りとめたところで、今度は輸血がもとで血清肝炎になった。これは身体もだるければ頭もだるい、何をする気にもならないという厄介な病気で、ぶらぶらと寝たり起きたりしながら無精の奥義をきわめて一年を過した。身体の方はどうにか元に戻ったが、頭の方はちっとも冴えなくて、依然として無精を続けている。元に戻ったというその元が、私の場合には半病人の状態を指すのだから、どっちにしても大したことはない。気息奄々とは私のために出来た言葉かと思う。  それでも一年たてばもうけろりとして、まるで夢のようだと号している。これは私の、こと病気に関しては「のど元すぎれば熱さを忘れる」主義に、基いている。主義もすさまじいが、それは癒りさえすればこっちのもの、元の木阿弥、今では不養生不摂生という意味では毛頭ない。私の胃は恥ずかしながら前科数犯をかさねていて、本人が自覚しないでいるところを急襲される。大出血をして病院に担ぎ込まれ、絶対安静の虫の息で寝ているうちに、不思議や少しずつ好転して、やがてバリウム検査をしてみると何処がどう破裂したのか、これが名医さんにも分らない。それ以上の検査はこちらで願い下げ、手術なんぞは真平御免という我儘な病人である。もっとも胃が悪くなる以前は肺の方がおかしくて、そのために成形手術を受けているから、肺活量は子供なみで、いつでも酸素の足りない金魚の如くにあっぷあっぷしている。まともに手術に耐えられる身体ではないのである。  従って養生専一、漢方の煎じ薬と自然食品、あとは仕事を控えて休養を旨とすることになるが、なにしろ怠けるのは大好きだし安静はサナトリウム以来の習慣、昼寝にまさる良薬なし、などと勝手なことをほざいていた位で、これが血清肝炎などという謂わば天下公認の怠け病に取り憑かれた以上、何もしないのは当り前である。原稿の註文などは、中身を聞くまでもなく断る。しかしそうして養生していたところで、原因不明で浅間山の如く噴火する胃をかかえているのだから、気にするとなればそれこそ戦々兢々、夜も昼もふるえていなければならない。従って度胸を据えて、悪くなったらその時のことと高を括り、胃の在処《ありか》を忘れて暮すことにしている。それが私のように生れつき神経質な人間にとっての「のど元」主義なのである。      ○  私は大学の教師でもあるから、この一年は大学の方も休みっ放しで同僚の先生がたにもとんだ迷惑を掛けたが、四月の新学期から講義を始めたその二回目か三回目のこと、教室を出ての帰りがけに廊下で一人の女子学生に呼びとめられた。先生は鮎沢巌を御存じだったとうかがいましたが、と言われて、ああ鮎沢さんなら昔よく識っていました、去年の秋フランスでお亡くなりになったそうですね、と答えた。私が怪訝な顔をしていたせいだろう、その学生は親戚に当るのだと自己紹介をしてから、遺族がお骨を持って帰国したので、この週末に普連土学園の講堂で御夫妻の追悼会を開くから、よかったら出席していただけないでしょうか、と言った。それが廊下での立話で、側をがやがやと学生たちが通るからつい聞きそこない、鮎沢さんがお亡くなりになった通知をもらったので、奥さんにお悔みの手紙を書こうと思いながら、何しろこちらも病気だったものだからつい失礼して、と弁解すると、いいえ奥さまの方も昨年四月にお亡くなりになっています、と言われて、まったく信じることが出来なかった。一度こちらまで遊びにいらっしゃい、という長い手紙が航空便で来たのは、ほんの昨日のような気がするが実際はいつだったのか。  鮎沢さん御夫妻は七年ぐらい前に、スイスの国境に近いフランスの片田舎に隠栖するために、日本を離れた。その通知を受け取った時に、いくら子供たちがフランスにいるからといって、外国に永住するというのは大した決心だと考えた。しかし鮎沢さんたちのような国際人にとっては、格別日本と外国との間に区別なんかなかったのかもしれない。そして御夫妻とも、永住の地にあまり長くは生きられなかったのである。  鮎沢巌氏は戦前は国際労働機構(ILO)に勤め、戦後は中央労働委員会や国際基督教大学や世界連邦建設同盟などで仕事をされた。クェーカー教徒であり、熱烈な平和主義者だった。その詳しい経歴を述べることは私の任ではない。鮎沢福子さんは東京女子大の第一期生で、在学中にジュネーヴに渡り、そこで新渡戸稲造の媒酌で鮎沢さんと結婚した。お二人が三人のお子さんと日本に帰られてから暫く後に、つまり昭和十年頃から戦争が始まる頃までの間に、私はしげしげと成城にあったお宅を訪れたものである。  当時私は旧制の第一高等学校の生徒だったが、理科乙類の友達に岡田というのがいて、これが鮎沢さんの坊ちゃんの日本語の先生になった。何しろジュネーヴで育ったのだから、フランス語は達者でも日本語は覚つかない。そこで家庭教師をつけることになったのだろう。姉さんの露子さんが十四か十五で、純ちゃんが二つ下、末のレマンちゃんは八つ位で、子供たちはフランス語でばかり喋っている。そこで家庭教師の岡田が、文科丙類、つまりフランス語を第一外国語にするクラスにいた私を、一緒に遊びに行かないかと誘った。もっとも誘われたのは私だけではない。鮎沢さんの家の飯はうまいぞ、本式のフランス料理だぞ、とか何とか宣伝されると、寄宿寮のまずい豚飯《とんぱん》が無上の御馳走であるような生活を送っていた一高生たちが、いつでも三人か四人ぐらいで組になって、厚かましく押しかけて行った。そして私の習いたてのフランス語では男の子たちにはまるきり通じなかったから、私は主として露子さんを相手にお喋りをしていた。向うは片言の日本語で、こちらは怪しげなフランス語で。本を読むスピードもだいぶ違い、私が大学生になってから、新刊のマルローの「人間の条件」を読んでいたら、ちょっと貸して、と取り上げられて、数日後には読後感を長々と聞かされた。私はその代りにロマン・ロランの「魅せられた魂」を、読みなさいとばかり押しつけられて、大いに迷惑した覚えがある。その間、御両親はいつ行っても暖かく私たちをもてなして下さった。  さて私はお二人の追悼会に出席し、久しぶりに露子さんの顔を見ることが出来たが、戦後彼女はフランスに去ってその地の貴族と結婚し、そのまま向うに住んでいるから、お互いに顔を忘れるほどの「久しぶり」なのである。一年経っても夢のようだと言うのなら、この三十年近い歳月は更に夢のようだと言うほかはない。そして私は追悼の演説を次々に耳にしながら、その時でもまだ、鮎沢さんの奥さんがちょうど一年前に、御主人に先立って、亡くなられたということを信じることが出来なかった。戦後の長い時間はその時一枚の衝立にすぎず、私はその衝立ごしに、鮎沢さんの客間でのお二人のにこやかな微笑を、フランス語で叫び合っていた子供たちの声を背景にして、眺め込んでいたからであろう。      ○  夢のようだという表現は、恐らくは流れて行く時間の早さを示すために、人類とともに古くからあったのかもしれない。それはまた人生の有為転変を示すものでもあった。浦島太郎にしても、リップ・ヴァン・ウインクルにしても、彼等が別世界で暮していた間の時間は、あっというまに過ぎ去っていた。考えてみると、彼等の別世界に於ける日常では(必ずしも別世界でなくてもいい、自覚せられていない日常という意味である)時間はゆっくりと、等間隔にリズムを打ちながら、過ぎて行きつつあった。しかし或る瞬間に(つまり彼等がこちら側の世界に戻って来た瞬間に)過去は一種の衝撃となって彼等に迫って来る。それは眠りから急激に覚めた時の印象に似ていて、過去は流動する流れとしてではなく、一個の物として認識される。その点から、彼等の体験はまさに夢と似かよって来る。何となれば夢というものも、日常とは別の次元に属し、流れではなく物であり、無時間の渾沌とした大きな塊りなのである。そして昔を顧みて夢のようだと言う時に、時間はその日常的な早さを一足飛びに飛び越してしまっている。飛び越された部分、つまり夢の部分は、燃え尽きた時間の灰にすぎない。そしてその灰は刻々に冷たくなり、次第に形を失い、忘れられ、遂には風に吹かれるがままに四散して、あとには何も残らなくなる。  従って、夢のようだという表現は、時間の早さを示すことによって、人生のはかなさをも示している。信長が桶狭間の出陣を前に幸若舞の「敦盛」を舞って、「下天のうちをくらぶれば夢まぼろしの如くなり」と歌った時に、彼は敦盛の哀れな生涯を貫く鍵語としての「夢まぼろし」を、人生一般に通じる象徴として、一つの決意にまで高めたのであろう。人生が一つの夢だということを真に悟りさえすれば、信長でなくても、その人間には何一つ恐れるものはない筈である。  こういうふうな夢への共感は、私には何となく日本的な感じがする。勿論人生が夢に近いという考えかたは、文明人から野蛮人まで、古今東西を問わず共通のものだろうが、日本人の場合には仏教の無常感と結びついて特に身近に感じられたのだろう。たまたま「一遍上人語録」の中に次のような言葉を発見した。 「夢と現《うつつ》とを夢に見たり。種々に変化《へんげ》して遊行《ゆぎやう》するぞと思ひたるは、夢にて有りけり。覚《さめ》て見れば少しもこの道場をばはたらかず、不動なるは本分なりと思ひたれば、これもまた夢なりけり。」  夢から覚めてみれば、現もまた夢だったという二重の構造によって、夢は一層その眩暈的な作用を果している。それは宗教的に解釈すれば、迷いの中にあっては悟りと思われるものも迷いにすぎないことを示すのだろうが、しかし一般に、私たちは人生が一つの夢であり、覚めてみてもまだそれが夢であるというふうには考えないものである。人生が「夏の夜のうたたねに垣間みた夢まぼろし」(「真夏の夜の夢」)だというのは、舞台の上で演じられている場合に限られていて、よほどの悟り切った坊さんででもない限り、人生が夢とは別ものであることを知らない者はない。      ○  むかし私はロマンチックな青年で、ネルヴァルの顰みに倣って、夢は第二の人生であろうと信じていた。それは恐らく夢が現実とは別の、しかしその等価物であると思い込んでいたせいである。しかしそれから私が少しずつ現実というものの正体に近づいて行くにつれて、嘗ては重みを同じくしていたこの二つのもののうち、夢の重みは次第に軽くなり、それは現実の重みにはとうてい匹敵しきれないものであることが分った。それ故今の私は、夢を一種の現実の反映としてしか見ることが出来なくなった。それでも私はまだ現実が夢のかたちで映し出すものを——それはしばしば芸術という名で呼ばれるのだろうが——信じているから、ロマンチックなところは依然として残っているのかもしれない。しかしこの現実が映し出したものたちも、多くの場合に、単なる脳髄の襞に浮んだ幻覚にすぎず、定着されずに幻覚のまま雲散霧消してしまうのである。  私は現実の正体に近づいたと言ったが、白線の帽子をかぶっていた青二才の私が鮎沢さんの客間で談笑していた頃から、私はどれだけその正体に近づいたのだろうか。もともと現実という奴は正体不明の怪物で、形は幽霊のようにどこに足があるかも分らず、近づいたつもりでもその実は遠ざかっているのかもしれない。もっとも物を見る場合に、近づくよりは遠ざかった方が全貌を見るのに便利な場合も確かにあるが、現実というのはそれから遠ざかれば最早現実ではなくなるだろう。現実はその中に涵り切って、自ら溺れることによってのみ現実として存在する。在ることは確かでも、その正体を掌の上に載せて出すようなわけにはいかない。そこで人は、現実の本質が最も露呈したような場合に、この不可思議なものを「まるで夢のようだ」という比喩を使って表現する。良いにつけ悪いにつけ(しかし多くは悪い場合に)、手に負えない、或いは納得しがたい現実に対して、それを夢と同格に置くことによって、この現実は普通とは違った特別あつらえの現実だと思いたがる。しかしそんなことはない。人はみな自分にふさわしい現実しか持たないので、近づくこともなく遠ざかることもなく、初めから終りまで、その中にどっぷりと涵されているのである。違うのはただ現実への意識の深まりかたの程度にすぎない。      ○  従って私が夢のようだと呟くのは、病気がどうやら癒ってこの一年間を振り向いた時よりも、それこそ一年前に死にかけていた当時の方が、遥かに実感があった。生活のリズムが不意に乱れて、まったく別の次元、恐らくは死と隣接している空間に、あっというまに運ばれた時に、現実は悪夢の感じとなり、人はもしこれが夢ならば早く覚めればいいと願う。しかし決して夢ではなく、謂わばそれこそが現実の最も本質的な様相なのだから、じたばたしても始まらない。私は貧血のあまり虚無の深淵へと吸い込まれる自分を感じながら、これが現実だということを充分に自覚していた。ということは私は胃病のみならず結核でも危い橋を何度も渡って来たから、自分を客観視するだけの余裕はどうやら失わないでいられるものらしい。  こういう悪夢にも似た現実というのは、日常の現実の中に隠されている無意識の部分である。それが危機に際して、個人の内部で意識の閾《しきみ》にのぼって来る。とすれば我々が毎晩のように眠りの中で見ている夢というものは、その全体が無意識の産物なのだから、私たちは夢を見ることによって現実の本質的な部分に対する予習をしているということになろう。夢は無意識からの警告であり、気取って言うならば、それは毎晩のように「メメント・モリ(死を忘れるなかれ)」と叫んでいるのである。  私は病床にあって、とても気取ってなんかはいられなかったから、来しかた行く末を考えて、もう少し生きたいものだと思った。我々は夢を見ても、それを端から忘れて行く。仮に夢の記憶が頭の中にびっしりと記憶されていたら、忽ち狂ってしまうだろう。しかし夢の中の最も大事な部分、それは現実の無意識界から意識的に抽出された部分と合致する筈だが、それを言語によって記録することは私に課せられた仕事であり、私はまだ自分の仕事をすっかり果したわけではない、というようなことに思いをいたしていた。      ○  病状がだいぶ回復した頃はうっとうしい梅雨空が続いたが、或る日お見舞に未央《びおう》の柳という茶花をもらった。小さな蕾が垂れているだけで、これは葉を見るのかなと思っていたら、或る朝花が開いていた。意外に大きな黄色い五弁花で、その中に長いしべが四、五十本ほどある。それから毎晩、眠られぬままに注意していると、夜中に次第に蕾がふくらみ、朝までに開くことが分った。そこで次のような歌をつくった。   夜をこめて未央の柳咲きにけり     しべ長くして夢のごとき花  どの点に私が夢のようだと感じたのか、今となってはもう思い出すことが出来ない。 [#地付き](昭和四十八年五月)     宇都宮  川上澄生という名前によって反射的に私が思い浮べるのは、宇都宮という地名と、宇都宮中学校の先生としてのその自画像である。私などが川上澄生の名前に親しんだのは、戦前に版画荘から出ていた幾冊かの公刊本がその初めだが、「少々昔噺」の巻頭には「今の私」の題で、「川上氏りいどる絵本」の巻頭には「川上君近影」の題で、それぞれ丸い眼鏡を掛けた恰幅のいい人物が描かれ、それはまた「ゑげれすいろは人物」の中の㈵の部「I stands for Instructor」の学校の先生と同じだから、川上澄生は即ち中学校の先生だという印象は抜きがたいのである。私は生前に一度だけ、個展の会場でお会いしたことがあるが、その時も川上さんは版画家というよりは中学校の先生らしく見え、昔の教え子たちに囲まれて嬉しそうだった。  川上さんを宇都宮という地名と結びつけるのは、或いは私ひとりの感覚かもしれない。作品に関する限り、特に宇都宮が舞台になっているものは思い当らない。川上さんは横浜の生れで東京青山の育ち、米大陸を放浪されたことがあり、北海道白老海岸に疎開されたこともある。そしてこれらの土地はみな作品の中に生かされている。しかし川上さんが最も長い期間を過されたのは、戦前も戦後も宇都宮であり、その地の中学校或いは女子高等学校の先生であったということは、取りも直さずその土地が好きだからそこで暮したということにもなるだろう。  普通は川上澄生と結びつくものは例えば長崎である。しかしそれは現実の長崎ではなく、時間の彼方にたそがれている港町であり、それは横浜にしても青山界隈にしてもアラスカにしても北海道にしても、みな同じである。つまり川上澄生は眼の前にあるものを写生しても、幻想的にしか描けないような画家なのである。とすれば宇都宮という土地は、一種の無色透明な舞台装置として、そこでかずかずの夢を紡ぐのにふさわしかったのではなかろうか。川上さんが東京のような俗っぽい大都会に住まず、自分の仕事だけを見詰めて暮すにふさわしい土地に、教え子たちに囲まれて暮すことが出来たのは、川上さんの幸福といったものであろう。  ところで私は出無精と来ているから、まだ宇都宮に行ったことがない。時刻表を調べてみると、特急なら東京から一時間ちょっとで行かれると知って、思わずびっくりした。無色透明と私は言ったが、しかし川上さんが永住の地と定めただけの何かが、風物や人情の中に隠されているのかもしれない。川上澄生の作品のよさは、直接その人柄のよさから導き出されている。その人柄のよさは、ひょっとすると宇都宮というこの土地柄とも関係があるのではなかろうか。  そこで私は空を見上げて、宇都宮へ一度行ってみたいものだなどと考えるのである。 [#地付き](昭和四十八年六月)     私の健康法  健康法とか養生とかいうのは、本来、健康であることを自他ともに認める人が、他人のためにその秘訣を説くところに意味がある。しかるに私は我ながら厭になるほど病気を経験し、よくまああれで持っているものだと人が感心する位だから、間違ってもこういう場所に顔を出すべき人間ではない。しかしとにかく今日までのところは確かに持ったから、そのわけを説明できないものでもない。  その前に私の病歴を簡単に述べれば、若い頃は結核で前後十年もサナトリウムで呻吟したし、それが癒ってやれやれと思ったら今度は胃が悪くなって、今までに六回も入院した。これはどの場合も、出血して病院に担ぎ込まれ、絶対安静の絶食を十日も続けていると、いつのまにか回復して来て、そこでレントゲン検査をしてももう患部が見つからないという、不思議な胃病なのである。その他にも昔からわけの分らない神経衰弱に罹っていて、外出するとしょっちゅう気分が悪くなる。そこで人の悪い友人に言わせれば、福永は病気が趣味なのだということになる。  とんでもない。誰が悦んで病気になろうぞ。そこで私の主義は、昔から第一に安静、第二に無精、第三にものぐさである。何れも似たりよったりだが、朝は朝寝坊、昼は昼寝、客にはなるべく会わないようにし、仕事はよくよくでない限り引き受けない、要するに勝手気儘に振舞おうという寸法である。  しかしこの数年来、いろいろ考えてみるに、私の場合は、胃病にしても神経衰弱にしても西洋医学ではらちの明かぬところがある。これは医者が悪いのではなく、西洋医学そのものがこちらの身体に合わないのかもしれない。そこであれこれ研究する気になって、次第に東洋医学の方へ近づいて来た。もともと以前から細君がリウマチで鍼の治療を受けたり、漢方医にかかったりしていたから、理窟のところはおおよそ心得ている。  昨年の今頃、私は大出血をして病院に担ぎ込まれたが、今度はなかなか出血が止らない。だんだんに危い瀬戸際に追いつめられたから大塚敬節先生に御相談申し上げて、大塚恭男先生に往診して頂き、お薬をいただいた。さてそれを煎じて飲むと、忽ち舌苔が取れて、一両日で出血もぴたりと止ったのには心から驚いた。そのはずみでだんだんに良くなって行った。  退院後に、今度は輸血のせいで血清肝炎になったが、この方も漢方薬と食事療法とで大事に至らずすみそうだから、今では私が自分で台所に行って薬を煎じること、一日と雖も怠ることがない。実に真面目そのものである。食事の方も玄米菜食、たまにカンニングと称して外食する時の他は、牛《ぎゆう》、とん、とり、卵、牛乳、砂糖、味の素の類は一切用いない。こういう仕掛で我と我が身を養うことにしたから、このか細い身体を、もう少々は持たせるつもりでいる。 [#地付き](昭和四十八年六月)     ほたる  農薬のせいとかで久しく見なかった蛍が、このところ毎年現れるようになった。私が夏を過している信濃追分でも、以前は蛍がたくさんいて、七月中旬ごろの愉しみは蛍狩に尽きると言ってもよかった。それが家人の病気や何かで何年もこちらへ来ない年が続き、たまに来ても蛍狩のことなんかまるで念頭になかった。どうせいる筈はないと頭から信じ込んでいたせいに違いない。  一昨年の夏は新聞に蛍の消息が出て、玉川上水などでも昔のように蛍が飛んでいるというので、この分なら追分にもいるかもしれないと、七月十九日の夜大人が三人連れ立って探険に行き、やっとのことで八匹ほどつかまえた。夏らしい愉快な気持がして、これからは毎年、昔通りに蛍狩としゃれようと思った。  ところが去年は五月から七月にかけて、胃を悪くして入院していたために、追分に来たのは八月になってからで、もう蛍はいないだろうと諦めてしまった。カッコウと蛍は七月いっぱい、草ひばり(虫の名)が鳴き始めるのは八月のお盆から、とこの辺の相場はきまっている。その上、追分に来て暫くすると、入院中に血清肝炎にかかっていたことが判明し、忽ち無気力そのものとなって庭先までも出られなくなった。  さて今年は七月九日に早くも信濃追分に来た。血清肝炎は慢性化して何をするにも気力がないし、追分はじまって以来と称する暑さが続いて容易に腰が上らなかったが、十六日の夜、決心して蛍狩に出掛けることにした。なに、出掛けると言うほど遠出をするわけではない。私の山荘のすぐ前に、千ヶ滝から旧御影村に通じる御影用水の、上堰《うわせぎ》と呼ばれる支流が東から西に流れている。それから少し南に坂を下りたところを旧中仙道が走り、更にその南に国道十八号線が走り、更に南に斜面を下って行くと下堰《したせぎ》が流れている。あたりには下堰から水を引いた田圃がひろがって、その先は信越線の線路のある土手である。線路まで行っても大した距離ではないが、私どもの猟場は下堰のあたりの田圃で、歩いてものの十分とかからない。  ステッキと懐中電燈と虫籠と団扇とを持ち、レインハットをかぶりゴム長靴をはき、細君をお伴に、意気軒昂と言いたいが無力性肝炎のおかげでそろそろと出掛けた。まだ季節が早そうだ、もう四五日してからだろう、などと口にするのは、蛍がさっぱり見つからないからで、そのうちに早くもくたびれて、信越線の電車が窓硝子を花火のように燦かせながら過ぎて行くのを、しゃがんで眺めていた。  蛍が見当らないのは、一つには明るすぎるということもある。振り向くと国道沿いのドライヴインのイルミネーションがきらきら光っているし、それにもまさって行き交う自動車の光の帯が、一瞬も切れるということがない。昔はこのあたりは真暗闇で、たまに信越線の列車が線路を走っても、今のように流星が天涯を掠めるような早さではなく、いつまでもごとごとと動いていた。それが唯一の明りだった。  とは言うものの、そのうちに眼が馴れて来て、あらいるわよ、と年甲斐もなく細君が黄色い声をあげると、なるほど、田圃の稲の上や畦道に点々と光っている。それからは昔取った杵柄《きねづか》で、ステッキは小脇に、団扇は頸筋に、懐中電燈は膝の上に、虫籠は左手に、それぞれ場所を定めてしゃがみ込み、器用に右手で蛍をすくいあげること、我ながらうまい。細君は細君で、ぞんがいいるわねえ、などとこれまた夢中になっている。遠雷がかすかに聞え、稲妻が時々ぴかりと走るのが舞台効果をあげている。何しろ見渡すかぎり人一人いないのが爽快である。  くたびれて家に帰り、数えてみると収獲は四十匹以上で、その晩は一晩じゅう明滅する涼しい光を愉しんだ。次の日、千ヶ滝の別荘にいる識合のお年寄が加減を悪くしていると聞いて、お見舞に差し上げた。  そこで思い出すのは、昔は軽井沢の旧道に室生犀星の別荘があって、野草や草ひばりを取っては室生さんのところへ運んだものである。蛍も室生さんを悦ばせたものの一つだった。昭和三十五年の七月三十日附で室生さんから貰った端書があるから、次に引用する。  昨夜までに四つの光がのこつた。併しけふは彼らもおしまひでせう。何十年ぶりかで螢を見たが西洋にこの光る虫がゐるのかしら、何だか大変なゆめを一週間見つづけてゐたやうなもの、どんな形で現はれてくるかそれが見たい、——今日廢市来る。   詩書の名の廢市に螢かよひける  文中の「廢市」というのは、私がその年出版した小説集の名前で、本が届いたという挨拶を兼ねて、有難い俳句を頂戴したものである。  室生さんが亡くなられたあとでは、風物の味わいを感じるたびに、その人の今は亡いことが残念でならない。蛍を虫籠に入れて、暗くなってから室生さんの門を叩いた時に、先生はどれどれと言いながら、さっそく部屋の電燈を消すように命じられた。蛍は室生さんの記憶の中の、何かしら大事なものを想い起させるよすがであったのかもしれない。そう言えば、昔うちの細君が扇子に書いてもらった室生さんの句があって、その情緒は忘れがたいのである。   螢くさき人の手をかぐ夕あかり [#地付き](昭和四十八年七月)     写真嫌い  今年は七月上旬から信濃追分の山荘に閉じ籠ったが、去年の五月に胃潰瘍で入院した際の輸血がもとでヴィールス性血清肝炎に罹ったのがちっともよくならず、殆ど散歩にも行かず昼寝ばかりしていた。まさに典型的な怠け者で、面会の方は午後三時から四時までの間のみに願います、と書いた札を入口に麗々しく掲げ、中にはいると柱時計の下に、主治医の命令により面会は十五分以内に願います、とこれまた去年の夏の掲示がそのまま貼ってあるから、大抵の客はびっくりして逃げ出す手筈なのだが、こんな変人のところへ来るのは馴染の客ばかりだから平気で長居をする。主人の方は安静時間中にぐっすり眠った筈なのにいまだ睡気の雲が頭の中に朦朧とたなびいていて、客の顔を見て欠伸ばかりしている。客の方が帰らなければ、ちょっと失礼、と言ってこちらが引き上げる。これが二階の書斎にこもって机に向うのなら体裁はいいが、さに非ず寝室の蒲団へ舞い戻ってまた横になると、本を開くかテレビを見るか、とにかく晩飯までは何もしない魂胆である。  私は昔長らく療養所で暮したから、健康のためには横になって寝ているのが一番いいという奇妙な錯覚がある。従って本を読むのに起きてはいられない。テレビを見るのに坐っては見られない。信濃追分の山荘にしても東京の本宅にしても、テレビは寝室の戸棚の中とか箪笥の上とか、ちょうど寝ていて見られる位置に置いてある。今年の夏は甲子園の高校野球が例年よりも日数がかかって延々とやっていたが、私はそれを連日テレビの中継で見てすっかり通になった。もっとも退屈な試合の時にはテレビを見ながら居睡りをすることもあれば、本を開いて画面が隠れる位置に両手で保ち、アナウンサーが金切声をあげると手を休めてそっちを見ることもある、といった具合である。晩飯のあともごろりと横になって片目でテレビを見、片目で本を読んでいる。本と言ってもおおむね推理物にSFの類ばかりで、合間に春陽堂版の鏡花全集を少しく繙いたが、この昔の菊判の大冊は重すぎて寝て読むには手がくたびれる。どっちにしても勉強の感じからは程遠い。  こういう生活は暇でさえあれば申し分ないが、この夏は暇とばかりは言い切れなかった。余分な原稿を断るには血清肝炎による無気力性という天下晴れての口実があったが(いやいや口実だけではない、肝臓が悪いと気ばかりあせって実行に及ばないこと、天下周知であろう)、春先から私の「全小説」という企画が進んでいて、それに伴う仕事を怠けるわけにはいかない。配本は十月下旬から毎月一冊という予定だが、第一回目が出るまでに少くとも四巻分の印刷を済ませておこうという万全の備えで、従って著者としては早くから仕事に追われる羽目になった。原稿に手入をする、初校が出る、序文を書く、附録をつくる、一冊分が終った時にはもう次の巻が待っているという始末。その他にも装幀とか内容見本とかの打合せもあって結構忙しい。そこで夏休みの間と雖も昼寝ばかりはしていられず、半睡状態の頭脳を鞭打って校正刷などを睨む。昔は校正には自信があって、誤植があると向うから目玉に吸いついて来るなどと称していたものだが、この頃は誤植が目玉の中を軽々とくぐり抜けるようになった。もっとも今度の仕事には新潮社の老練の校正係がついていて、大過はない筈である。  校正などはまあ半分は機械的な仕事で多少の愉しみをも伴うものだが、ここに避けられぬ難事を生じたというのは、写真の撮影である。見合ではあるまいし何も文士の写真などを撮って人に見せることはない、というのがかねてからの私の主張だが、当方の意志薄弱、この主張がなかなか思うに任せない。これというのも文士になりたての頃に承知したのが悪かった(と言って、いつから文士になったのかはっきりしないが)、そのためやむを得ないと諦めて今日に及んだので、最初から断固として断っていればこんなことにはならなかったろう。モーリス・ブランショは死ぬまで顔写真を発表しなかったようだが我が国の文士、一人として写真を広告に使われることを拒否した者はあるまい。と息巻いても始まらないから、消極的になるべく御辞退申し上げることにしているが、「全小説」ともなれば版元の権限頗る大で、広告に、ちらしに、カタログに、口絵に、たくさん要りますと係の富士君に言われて、いたしかたなく承知した。その代り風景を主にして、豆粒のように人物がいるところを撮ってもらいたいと註文したら、では浅間山を背景にしたいから追分に行ってもらえるかと逆襲されたのが五月頃で、とんでもない、わざわざ行けるものか、夏には行くからその時でいいでしょう、と駄々をこねて、六月の中旬、成城の自宅の近くにある雑木林に行って撮ってもらった。ちょうど梅雨のさなかで糠雨が降ったり歇んだりしている。写される方も楽じゃないし写す方のカメラマンもずぶ濡れである。しかし半日の我慢でどうやら責任を果した。  そこで夏の信濃追分の話になるが、富士君から再々電話が掛って来て、浅間山を背景にした写真を撮りにいつ行ったらいいですか、と言う。写真はもう撮ったじゃないか、あんなに撮ってまだ足りないのかい、と反駁すると、あれではとても足りません、八月中にぜひお邪魔させて下さい、と執拗である。この土地は八月はどうもお天気が悪くてからりと晴れないからね、九月の方がいいでしょう、九月にしようよ、と厭なことは一寸延しにしたい性分だから、やさしい声を出したので富士君も不承不承にその気になった。これ程写真を厭がる男も珍しいと彼が考えていることは、電話の受話器を通してその気配で分る。  断っておくが私は何も写真そのものを毛嫌いしているわけではない。広告用の写真が巷に氾濫して見知らぬ青年や少女から、おや福永さんじゃありませんかサインして下さい、などと話し掛けられるのが真平御免なのである。自分の顔は自分だけの専用で、めったに人前に曝したくないことは私が講演などに決して出ようとしないことにも見られる。つまり無色透明、人通りの中を歩いていても風の如くでありたい。何もわざわざこんな顔をしていますと人に教えることはない。  しかし万事宣伝の世の中、私ばかりが意地を張ることも出来ないから、せめて写真を撮られる際にはなるべく怖い顔をして唯我独尊を気取ることにしているが、これが思うようにいかない。カメラマンの命令に従って右を向いたり左を向いたり、少し笑って下さい、などと言われようものなら、僕は決して笑いませんよ、笑い顔なんか撮ったら承知しませんよ、と念を押す。それやこれやで神経を磨り減らし、あげくの果に出来て来たのを見ると、変な顔でにっこりしているのが混っていて激怒する。そこで思い出すのは室生犀星は大の写真嫌いで、私が先生の知遇を得た昭和三十年頃に、買いたてのヤシカルーキーという安物カメラで大いに先生を悩ませたことがある。室生さんは男の客には愛想が悪くても女客にはやさしいから、細君同伴でお邪魔をすると細君の方を見てにこにこしているのをパチパチ写した。この写真は先頃出した「意中の文士たち」という私の本に複製を入れておいたが、室生さんがこんな円満な微笑を浮べた写真は珍しかろうと思う。どうも室生さんは職業的カメラマンに狙われると緊張して、ことさらおっかない顔つきになられたのだろうし、私が怖い顔をしたがるのもつまりは先生の訓戒に従うのである。(もっとも室生さんも晩年は写真馴れされて、やさしい顔のが幾つかある。)  ところで信濃追分に戻ると、早くも九月になって下旬には帰京する予定だから撮影の日取を二十一日にきめ、富士君とカメラマンとを山荘に迎えた。その前日くらいから空模様が怪しくなって浅間山が見える気配もない。当日になると小雨模様、一月も延期してこの有様では責任重大まことに申訣ない次第だから、昼寝の日課を取りやめて率先案内役を買って出た。ますやタクシイの老練の運転手さんの車に細君まで入れて四人で乗り込み、山の方へ行って下さい、もう少し登れないかな、とうるさい。どこから見ても浅間は雲の中で、ススキやワレモコウばかりだから、あまりいいお天気よりこれくらい曇っている方が効果がいいでしょう、などとカメラマンにお世辞を言ったら、ススキは逆光でないとうまく出ません、と軽く片づけられた。  案内役としては、点景人物の方はどうせまずい面だからせめて風景のいい場所を選びたい。かねて女街道から見る浅間は絶妙だと聞いていたから、運転手さんに命じてそちらへ行ってみた。女街道は中仙道をはずれて借宿から油井《ゆい》の方へ行く脇道である。どうせ山は見えないと分っていても、人一人通らない廃道にはそれらしい情緒があるだろうと思っていたが、馬頭観世音の石碑に小雨が降りそぼち、アキノキリンソウがかたえに首をうなだれているのは、なかなか悪くなかった。しかし写真を撮られている頃はちょうど昼寝の時間に相当していたから、睡い目をぐっと我慢している面構えがどんな怖い顔に写っているやら。 [#地付き](昭和四十八年十月)  [#改ページ]   掲載紙誌一覧 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 十二色のクレヨン(抄)——  全篇「ミセス」昭和四十四年一月号より十二月号まで連載。「ノオト」のみ書き足し。 美術随想——  ロートレックの現代性 「読売新聞」昭和四十四年一月八日附夕刊  ドラクロワと文学 「朝日グラフ」増刊ドラクロワ展特集号昭和四十四年五月十五日号  ゴーギャン展二題 一、ゴーギャン紹介 西武百貨店発行「せぞん」第十号(昭和四十四年夏季号)原題「ゴーギャン頌」  二、世界の謎 「読売新聞」昭和四十四年八月二十日附夕刊  ムンク礼讃 神奈川県立近代美術館、東京新聞社発行ムンク展カタログ(昭和四十五年九月二十六日)  硝子の窓 ギャラリー吾八発行「川上澄生硝子絵集」の序(昭和四十六年十一月刊) 音楽随想——  レコード批評というもの 「芸術新潮」昭和四十三年八月号  ワルター頌 CBSソニーレコード、モツアルトのヴァイオリンコンチェルト三番ト長調K216, SONC-10104(昭和四十三年十月発売)ジャケット  シベリウスの新盤 「レコード芸術」昭和四十四年六月号広告頁  恋愛音楽 ブラームス「弦楽六重奏曲第二番」演奏ベルリン・フィル八重奏団フィリップスレコードSFX-7700(昭和四十四年十一月発売)ジャケット、他に同昭和四十四年度芸術祭用パンフレット  ベートーヴェン寸感 フィリップスレコード「偉大なるベートーヴェンの肖像」SFL-9910-19(昭和四十五年四月発売)別冊解説  音楽三題噺 一、「ルル」雑感 「ミセス」昭和四十五年七月号、原題「オペラについて」  二、百枚のレコード 同八月号、原題「レコードについて」  三、音楽療法 同九月号、原題「バロック音楽について——ローマ合奏団雑感」  シベリウスの年譜 日本フィル第二三〇回定期演奏会用プログラム(昭和四十六年十二月十日) 身辺雑事——  デュヴィヴィエの頃 フィルム・ライブラリー助成協議会発行「ジュリアン・デュヴィヴィエをしのぶ」(昭和四十三年一月刊)原題「デュヴィヴィエと私たちの青春」  瓢箪から駒 「別冊文芸春秋」第一〇六号(昭和四十三年十二月発行)  月と広島 「潮」昭和四十四年九月号  宵越しのぜに 金融財政事情研究会発行「BSD」昭和四十四年九月号  万年筆 「風景」昭和四十五年一月号  暖かい冬 「サンケイ新聞」昭和四十五年一月十一日附  平安京の春 「太陽」昭和四十五年七月号  閑中多忙 「朝日新聞」昭和四十五年八月十二日附夕刊  古書漫筆 「サンケイ新聞」昭和四十六年十一月十一日附夕刊  千里浜奇談 「風景」昭和四十七年二月号  映画漫筆 共同通信経由「日本海新聞」昭和四十六年十二月二十二日附その他  伊豆二題 一、「読売新聞」昭和四十七年二月二日附朝刊、原題「南伊豆」  二、PHP青春の本第七巻「旅と青春」(昭和四十七年八月PHP研究所発行)原題「伊豆一周」  昭和二十二年頃 「新生」復刻編集委員会発行「回想の新生」昭和四十八年九月刊  夢のように 「朝日新聞」昭和四十八年六月四日及び五日附夕刊  字都宮 川上澄生遺作版画頒布会月報第五号(昭和四十八年七月発行)  私の健康法 「東洋医学」昭和四十八年十月創刊号  ほたる 「毎日新聞」昭和四十八年七月三十日附夕刊  写真嫌い 「波」昭和四十八年十一月号 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   後記  昭和四十四年、四十五年、四十六年と三年引続いて、毎年夏に随筆集を出して来たが、三冊出たところで後が跡切れてしまった。随筆は片手間に書いているだけなので、三冊も出せば品切になってもやむを得ないが、実のところ更にもう一冊を予定していた。この本の前半に収めた「十二色のクレヨン」は昭和四十四年に雑誌に連載した一聯の随筆で、その翌年にでも一冊に纏めてしかるべきものだった。それが私の無精からつい延び延びになった事情については、その部分の最後につけた「ノオト」を見て頂きたい。そしてこの連載随筆を「抄」ということにきめ、一冊にするには不足した分を補充するために、前の三冊の随筆集から零《こぼ》れた作品や、また新しく書いた作品などを拾って編輯してみると、今度は一冊に余るほどの量になった。その結果「十二色のクレヨン」(抄)と色相を同じくするような身辺雑記と、美術と音楽とに関する短い文章とを集めて、ここに「夢のように」と題してまず一巻をつくり、残りの文学に関するものは別にして、いずれ「書物の心」と題して上梓するつもりである。  さて随筆集の巻末に言わでものことを述べて著者の本音を洩らすのが今迄の恒例だが、三年ぶりにこういう後記を書くことになってみると、我ながら勢いの衰えたこと憮然たるものがある。  随筆の中では呑気そうなことを言っていても、一寸先は闇の世の中、例えば「閑中多忙」などと洒落れていた昭和四十五年の夏は、この原稿を書いた一週間ほど後に倒れて、信州小布施町の新生病院に担ぎ込まれたし、その二年後の四十七年の五月には信濃追分に滞在して「伊豆一周」の原稿などを書き、車で帰京したその日に大出血して、今度は中野綜合病院のお世話になった。そのあと慢性の血清肝炎で苦しんだ次第は本文中にくどいほど出て来る通りである。何も随筆のたねを探すために病気になるわけではないが、怠ける方もすっかり慢性化してこの頃では随筆さえも書く気にならない。  それにもう一つ、「十二色のクレヨン」の初めの方に引越の話が出ているが、最近また引越をした。それがちっとも威勢のいい話ではない。その間の苦心談はいずれ書くこともあろうが目と鼻との距離の引越なのに意外に手間取り、そのうちにばたばたと、まず細君が倒れる、私も風邪をこじらせて寝つく、という始末で果して引越が済んだのかどうか心もとないくらい旧宅には依然として荷物が残っている。借家住いを好む私が、あまりに借家が払底しているので苦心経営して家を建てたのはいいが、馴れないことでくたびれ果てた結果がこれである。去年から今年にかけて、暇さえあれば家の建つのを見物——監督という柄ではない——しているうちに引越になり、その引越を人手を頼んで毎日曜日なし崩しに試みているうちに夫婦揃って病気になったのだから、まったく冴えない。そのあげく、この短い後記を書くのにもまるで筆が進まず、我が精神も今年の長く続く梅雨空の如く暗曇そのものである。しかしそのうちにからっと晴れて私の好きな夏が来るだろうから、泣言はこれ位にしておこう。著者が後記でぼやくなどというのは見場のよいものではないが、どうか勘弁してもらいたい。      昭和四十九年七月 [#地付き]福永武彦   この作品は昭和四十九年八月新潮社より刊行された。